神祓い 二章:異変

 外から物音がする。普段なら取るに足らない騒音だろうと歯牙にもかけない程の大きさの音。しかし、今はどうしてもそれが意識の中に入ってきてしまう。
 太が耐えきれなくって目を覚ますと、そこは薄暗闇の部屋の中である。時はまだ夜中であった。
「一体なんなんだ、こんな夜中に」
 太はうつらうつらしながら窓の外を見やると、一瞬にして頭を覚醒させるものがその目に飛び込んできた。
「なに、これ」
 旅館の入り口辺りには点々と松明の火が明かりを放っており、その元に人の顔がいくつか浮かび上がっていた。彼らは互いに何かを話し合っているが、その内容は離れているこちらまでは聞こえてこず、表情も読み取ることが出来ない。
 不意にこちらの方を見やる男がいた。
 やばい、咄嗟に太は窓から顔を離した。
 太は瞬時に悟った。理由は分からないが、この異常な事態は十中八九自分達に関することだろうと。太は静かに、音を立てないようゆっくりと望月の部屋の方へと向かう。
 息を殺しながらそっと襖を開けた。隣の太の部屋と同じく、暗闇の部屋の中を見やる。部屋の中を一式見回して太はようやく理解した。
 その部屋はもぬけの殻だということに。
(望月さん。こんな時に一体どこに……!)
 太は心の中で狼狽したが、すぐに我に帰る。今はそれより、なんとかしなければ。
 太は自分の部屋に戻り、ボストンバッグから素早く長方形の木箱を取り出した。
 木箱の蓋を開ける。中から出てきたのは筆であった。
(前に望月さんから教えてもらった方法は確か)
 太は左手に筆を握り目を閉じる。そして徐ろに右手に筆を走らせた。
 全身に書く必要はないわ、っていうか一人じゃ書けないでしょ。望月の言葉が記憶の脳裏に甦る。
(とはいえ、耳なし芳一みたいにはならないかな。少し不安だ)
 そんなことを考えている内に旅館の戸を叩く音がした。
(考えている暇はないか。早くここから出ないと)
 太は必要最低限の物を携行して、寝巻き姿のまま部屋を後にした。一階に降りると、旅館の女将が深夜の訪問者に対応している。太がおそるおそる近づいてみるが、誰も太に気付いている気配はなく、まるでそこにいないものであるかのようにやりとりを続けている。
(よし、狙い通り。見えてないみたいだ)
 太が右手に書いたのはまじないの一つである。「神字」と呼ばれる特殊な形状をした文字を一定の規則に沿って体の一部分に書くと、その姿を見えなくさせることが出来る。ただしあくまで見えなくするだけであって掴むことは出来、声などが消えるわけでもないので音を立てれば容易に居場所が分かる代物であった。
 太はそのまま女将と話していた男の脇をすり抜ける。外に出てみたが、集まっていた者達はただ玄関の様子を伺うほかは、時々太と望月のいた客室の方を見やるばかりである。
(本当に誰も気付いてないみたい。これって便利だな。まあ別に悪用するつもりもないけど。さてと)
 太がその場を後にしようとすると、女将が事情を理解したのか男を渋々中に入ているところであった。他に集まっていた者達もその後に続く。
「やれやれ、間一髪」
 太一は人の気のなくなった旅館の入り口で小声で呟いた。