異界手帖 四章:夕暮れの空

 夕暮れの北宮神社。徐々に冷え込む夜気が境内を包み込む。北宮神社は境内の正面から、夕日が沈む海を望むことの出来る景勝地であったが、それはほんの一部の者しか知らない事実であり、相変わらずまばらに人が来るばかりである。
「大鯰とやらは退治したわ」
 戸の締め切った社務所の一室、太と弓納に向けて望月は淡々と言った。
「大体やったのは俺だけどな。水ならぬ地面の中を回遊してやがったよ、鯰」
 そして、少し不服そうに天野はそれに付け加える。
「ああ、それと大鯰については面白いことが分かった」
「それは一体」
 太が尋ねる。
「あれは何者かによる式神、使い魔の類ね」
「じゃあ、誰かが操っていたんでしょうか?」
「そういうことになるわ。まあ誰かを調査するのは手が折れるのだけれど」
「どうしてですか?」
「何故って言うとね、生野家に恨みを持っている人間ないし妖怪の類が起こした可能性があるから。生野家は財閥とは言わないけれど、県内ではそれなりに名のしれた資産家よ。そこに行き着く過程に大なり小なり誰かの恨みを買っていると推測できる」
「でも式神だなんてものを使えるんだったら、ターゲットは絞られるのではないんですか?」
 太が横から口を挟む。
「いいえ、太君。今回の件が間接的に行われたのだとしたら、そうも言えないわよ」
「間接的に……?」
「そう。大鯰を操っていた者が呪術などに関する知識を持っていることは間違いないでしょう。だけど、こういうケースもあるの。すなわち、大鯰を操っていた者は只雇われただけで真犯人が別にいる、とか」
「なるほどですね」
「まあしかし、単純に実行犯が真犯人である可能性もあるし、そもそも怨恨以外の可能性もあるがな。なあ望月、その洗い出しまで俺達はやらないといけないものか?」
「微妙なところね。私達が頼まれたのは、生野氏を悩ませている異界騒ぎを鎮めること。大本の原因まで対処するかは、依頼者やその他諸々の条件次第、といったかんじ」
「俺だったやらないがな。個人や華麗なる一族のいざこざに巻き込まれるのはごめんだ。そういうのは決まって得より損の方が大きい」
「すみません。水を差すようなのですが」
「何、小梅ちゃん?」
「その大鯰、捕えてたりとかはしてないですか? 手がかりがあるかも」
 弓納のその問いに望月は首を振る。
「残念だけど、あれは捕えたり出来るような代物じゃなかったわ」
「何故でしょうか? 大きいから?」
「溶けたからだ」
 天野は答えた。
「うん、文字通り溶けたわ。泥みたいにね」
「ああ、さっき大鯰について面白いことが分かったと言ったが、もう一つ面白いことがあったな」
「式神は元となる個体に自分の術式を組み込むことで成立するということは知ってるわよね?」
「確かハードウェアにソフトウェアを入れるイメージ、ですよね」
 太が答えた。
「その通りよ。だから、逆に言うと式神を使うには元となる個体がいなければならない。まあ理論上、元個体となるもの自体を擬似的に作れないこともないけど、それはほとんどの場合無意味。だって、それはこれから作り出す個体の構造も機能も、何から何まで把握した上でやらないといけないもの。だから必ずどこかに綻びが出る。いいえ、綻びがない所を探す方が困難よ。そんな不毛なことをするくらいなら、既にそこに在るものを利用した方が遥かに効率的だわ」
「それはまあ、そうですね」
 文書ソフトを作ったり使ったりするために、PCを一から作るだなんて馬鹿げてる。そんなことをするくらいなら、ソフトウェアの改善にでも力を入れた方が遥かに建設的であろう。
「それで少し話が脱線したけど、その元になる個体は大鯰、多分、生野家に伝わってるという言い伝えの大鯰」
「つまりだ、かつて生野家を悩ませたという大鯰のことを知っている者ってことになる」
「偶然見つけた可能性もごく僅かにあるし、単純に大鯰がこの地にかつて生息していたことを知っていた者だった可能性も考えられるから、まだ確定はしてはいないのだけれどね。ま、この事は頭の片隅にでも置いといてちょうだい。それより、そっちはどうだった?」
 弓納と太を交互に見ながら、望月は言った。
「はい。直接的な関係があるかは分かりませんが、変な男の人がいました。というか、その人妖怪でした」
「尾行したつもりだったのですが、最初から気付かれていたみたいです。そもそも目的は僕だとか言ってたのが気にかかります」
 太は客士達と関わる以前から、こうした世界に少しは足を踏み入れていた。しかし、それも程度が知れていてせいぜいくるぶしが浸かるくらいのものである。その範疇において、あの男のような者から恨みを買った覚えもないし、また関わりを持ったこともなかった。それ故に、あの男の目的が自分だということに太は未だに困惑していた。
「目的が太君? そういう性癖の人なのかしら」
 望月は首を傾げる。
「どういう性癖の人ですか。目的を聞いてはみましたが、やっぱり教えてくれませんでした」
「男はどうしたの?」
「"逃しておきました"」
「そう、上出来ね。その辺りも含めて調べてみようかしら」
 そこまで言って、望月は神社の入り口のある方角を見ながらじっと黙り込んでしまった。
「どうした? 望月」
「いいえ、大した事じゃないのだけど。ごめんなさい、少し外に出ていいかしら?」
 そう言うと望月は立ち上がる。
「あ、望月さん」
「どうしたの、太君?」
「……多分ですが、拠点、分かりました。後でお話します」
「分かったわ。ありがとう」
 望月は廊下に出て戸を閉めた。
「どうしたんだ?」
 天野は太と弓納に問いかけるが、二人共とも首を横に振るばかりであった。