異界手帖 四章:夕暮れの空

 夕焼けに照らされる北宮神社前の通り。大通りから外れているためか行き交う人はなく、時折上空を滑空する群鳥の鳴き声が聞こえるばかりである。
 坂上は微かに夜の気配が漂う橙色の空を眩しそうに見つめる。
「ああ、眩し」
 何故だろうか、昔は心を満たしてくれたこの陽の光が今は少し胸に突き刺さる。歳を取ると食べ物の好みが変わるように心境にも変化が起きると言うが、こんなに美しいものに対する心持ちまで変わってしまうものなのか。
 まあ、こんなのを辛いと思うのは自分が寂しい人間だっていう証拠なんだろうが、そう坂上はボソリと心の中で毒づく。
「おっといけねえ。郷愁に浸っている場合じゃねえわ」
 坂上は再び目的地に向かって歩き出しながら、先日起きていた車大破の件について思考を巡らせていた。
 思えば不可解な点だらけだ。ナンバーその他車体識別用の番号が欠けているから持ち主は分からず、持ち主も名乗りでない。よほど後ろめたい気持ちでもあるのか、それとも他に理由があるのか。
「はああ、推理の神様でも降りてこねえかな~」
「例えばベイカー街の探偵さんとか? それともここは日本だから明智小五郎?」
 坂上は背後を振り返る。そこには望月が立っていた。
「……あんたは」 
「御機嫌よう、坂上さん。また会ったわね」
「ああ、こんにちわ。さっきの質問だけどな、出来れば超自然現象を可能性の範疇に入れてくれる探偵はいないかね」
「超常現象だなんて、推理物でそれっていいのかしら? それじゃあ全ての根底が覆っちゃって面白くないだろうし、第一、そういう不可解な事件を物理的にありうる範囲で解決に導くのが推理の醍醐味ではなくて?」
「嬢ちゃん、最近はファンタジーものの推理小説なんてものもあるんだぜ。魔法なんかあっちゃ困るってことはない。起きうる超自然現象の範囲を予め定義でもしておけばいいんだ。そうすれば、魔法使いの探偵なんてのも成り立つと思うんだが」
「そう、そんな物もあるのね。でもそれってミステリーファンは納得するのかしら?」
「さあな。それはそれだ。受け入れられるかはともかく、一つの作品として成立し得る。それにな、タブーは打ち破るものだろう?」
「ふふ、警務にあたる者が言うことじゃないわね」
「いいんだよ、少しくらいいい加減の方が。真面目くさってやってても駄目になっちまう。それはそうと、何の用だ? わざわざ話しかけて来たってことは何かあるんだろう?」
「それはこちらのセリフよ。坂上さん。貴方、ここ数日間"私達"の周りをうろうろしていましたね」
「ふ、バレてたか。流石だ。あんたやっぱり只者じゃないな」
「何故私達のことを付け回すのかしら?」
 坂上は肩をすくめる。
「黙秘権を主張する、って言ったら?」
「それは困ったわね。ストーカーで通報するにしても立件不十分で終わりそうだし」
「だろうな。一般人にゃ尾行しているようには見えないからな」
「どこかでボロを出してくれないかしら」
「ないな。腐っても刑事だ。っていうか何であんた俺の素性知ってんだ」
「あの夜警察官と親しそうに話してたじゃない。少なくとも警察関係者だって可能性にすぐに行き着くわよ」
「ああ、ドジッたな。確かに」
「まあでもそうね。仕方ない、か」
「ん?」
 望月が何かを投げると、それに合わせるかのように坂上の側で鋭い風が通り抜けた。坂上は風の起きた方向を見下ろす。
 路上の石にメモ帳ほどの大きさの紙が突き立っていた。
「なんのつもりだ? 元々"そういうつもり"で来てたんだ。今更これくらいじゃ驚かねえよ」
「ええ、分かってたわよ。貴方が"そういうつもり"で来てたってこと。だからこれは警告」
「何の?」
「これ以上こちら側に足を踏み入れないことへの」
「何故だ? 俺がどうなろうとあんた達の知ったことじゃないだろう」
「いいえ困るわ。市民に被害が及ぶのは私達にも実害があるの。大体、無関係者を巻き込んだら寝覚めが悪いわ」
「俺は無関係者じゃない」
「あの車の件のこと? それこそ、貴方は関係はないんじゃない?」
「ああ、その件も気になるが、それだけじゃない」
「それじゃあ何かしら」
「北宮神社だ。彼処で、何年も前にいなくなった娘を見た」
「……結ちゃんのことね」
 坂上は目を見張る。そして、初めて目の前の女を警戒する素振りを見せた。
「なんでだ、何故あんたがその名前を知っている」
「貴方が私達のことを調べ回るから、私も貴方のことを調べさせてもらったわ」
 そう言って、望月は懐から茶革のシステム手帳を取り出してパラパラと一つのページを開いた。
「坂上護さん。職業は警察官。昔から柔道をやっていて、学生時代の時に何度か凶悪犯取り押さえるなどの活躍で表彰された経験がアリ。その時の経験が元になって警察官を志すようになり、大学卒業後に警察に就職、前途多難がありながらそして、今はとある理由により休職中。他方、その屈強な肉体に反して昔から読書が好きで、ファンタジー小説や推理小説をよく好んで読んでいた。どう、ここまで合ってるかしら」
「おいおいやめてくれ。そんな平凡な人生は俺が誰より知っている」
「……貴方はいつの頃からか、小さな女の子を育てるようになった。それが結ちゃん。でも、その子はある事故に巻き込まれて――」
「勝手なこと言ってんじゃねえ……!」
 坂上は怒りを堪えるように、しかし語気を強めて言った。静かな風が吹き、木々の囁きが辺りを包み込む。
「勝手に、決めつけるな。遺体が見つかってないんだ。あいつは、結はまだ何処かにいる」
 坂上は俯きながら、声を押し殺すように言った。
「……ごめんなさい。私は子供を持ったことも育てた経験もないから、貴方の気持ちは分からない。でも、その希望的観測の可能性は絶望的ね。もうあれから何年も経過している」
「じゃあ、あんたの神社で見かけたあの子は何なんだ?」
「私はその子を見たことがないから分からない。もっとも、結ちゃんの顔までは知らないから、その子を見ても分からないでしょうけど。でも世の中似た人なんて一杯いるわよ」
「はは、こんな近くに瓜二つの子がか。こりゃ笑える、どんな確率だ」
「……いずれにせよ、こちら側は貴方が関わることではない。貴方には貴方のやるべきことがある筈。こんな取るに足らないことに首を突っ込むのはやめなさいな。ろくなことにならないわよ」
 望月はそう言い残して、静かに去っていく。
「忠告ありがとうよ。でもなあ、それでも俺はこの可能性に縋りたいんだ」
 一人残された坂上は呟いた。