異界手帖 五章:生野綱という男について

 生野邸の庭園。短く丁寧に刈りそろえられた芝生の生い茂る場所で弓納と紺色のスーツの男は対峙していた。
「やあこの前はどうも。やっぱり君も来ていたのか」
「はい、その説はどうも」
「君とあの青年にはまんまと一杯食わされたよ。あの投擲は文字通り投げやりのつもりでやっていたのだと思っていたからね」
 そう言いながら、男は少し自嘲気味に笑う。
「恐縮です」
「ところで名前を聞いていなかったな。君の名はなんという?」
「弓納です。貴方の名前も教えてください」
「ああ、もちろんだ。今は豊前翁、と名乗らせてもらっている。笑わないでくれよ。酔狂で付けた名前ではない。ちょっと気取った名前にはちゃんと由緒があるのだから」
「それは大丈夫です。豊前翁、覚えました」
「さてさて、挨拶も済んだことだ。今度はあの時のようには行かないよ。次に尻尾を巻いて逃げるのは君の方だ」
「そうですか。でも、負けません」
 弓納は手にしていた朱槍を軽やかに数回転させる。回転させている時もその視線は常に豊前翁を向いたままである。
「来ないのかい?」
「別にどちらでも」
「では今度は私から」
 豊前翁は徐ろにスーツの内ポケットから扇のようなものを取り出した。
「君に実に相性が良さそうものを用意した。これが何か分かるかな?」
「形状から大体予想は付きます。風を吹かすものではないですか、天狗さん」
 淡々と言われて、豊前翁は苦笑する。
「その通り。芭蕉扇とは言わないが、これも負けず劣らず烈風を起こす一品だ。どれ」
 豊前翁は扇を広げて素早く振るう。そうすると、その動きに合わせるかのように風の塊が鈍い音を立てて弓納と豊前翁の間にある地面を抉り取った。
「というわけだ」
 豊前翁は扇で口元を隠しながら言った。
「なるほど、恐ろしい扇です。日常ではとても使えたものではありませんね」
「はん、少しはたじろぐかと思ったのだけどなあ。やれやれ、これでは脅かし甲斐がない。君は今をときめく女子高生ではなかったか?」
「すみません。少し慣れてしまっているもので」
「では意地でも驚かせてみたくなった」
 豊前翁は大きく扇を掲げて思い切り振り下ろすと、上空の雲をまで散らしながら弓納に襲いかかった。弓納は槍を構えたまま、前方を見据えたまま動かない。
「どうした、そのままじっとそこに突っ立っていたら遥か彼方まで吹き飛ばされてしまうぞ。まさかこの風に乗って旅行しようってわけじゃあるまいにっ!」
「それはお断りです。旅行はゆったりと行きたいですから」
 空気の流れが弓納の持つ槍先に触れた、その瞬間、弓納は全身を使って、槍を下に振りそして上に大きく凪いだ。そのまま前傾姿勢を取り、風の裂け目になった前方に勢い良く飛び出した。
 目の前には豊前翁、弓納は槍を大きく振り上げ、力の限り振り体に向けて下ろそうとした。
 しかし、振り下ろされようとした槍の動きは止まった。
「うっ……」
 弓納の顔には苦悶の表情が浮かぶ。
 弓納の腹に豊前翁の扇の骨がめり込んでいた。
「少女よ、急いてはことを仕損じる、というやつだ」
 豊前翁が口角を上げる。
 が、すぐにその表情から余裕が消え、目を見開いた。
「やあああああっ!」
「ぐっ!」
 槍が振り下ろされるが、豊前翁は眉間に皺を寄せながら持っていた扇で間一髪、弓納を後方へ吹き飛ばした。弓納は数メートル後方で踏みとどまりはしたものの、その場で崩れ落ち、膝を着く。
「いっつ……」
 弓納は腹を抱えて呻く。
「全くもって背筋が凍る気分だ。数日は昏睡させるつもりでやった筈なのだが」
 弓納は槍を支えにしてよろよろと立ち上がる。その表情は少し険しかったが、瞳の奥に宿る火は消えていなかった。
「まだ、いけます」
「まだ来るか。まあいいとも、君が敗北を認めるまで何度でも遊んでやるさ。だが、自分の限界を自覚したまえよ? でないとあっという間に亡者の仲間入りだ」
「忠告ありがとうございます。でも、余計なお世話です」
「そうか、それは悪かった」
 弓納は一直線めがけて豊前翁に突っ込む。豊前翁は扇によって風を起こすのを諦め、その骨の部分を使って弓納に応戦を始める。
 弓納の動作のモーションが先程よりコンパクトになっていることに豊前翁は気付いた。また隙をついて攻撃をくれてやるつもりだったが、これでは手を出すことができない。
「ふむ、困ったな」
「やあっ!」
 弓納が豊前翁の胸元に向けて槍を繰り出した。豊前翁はそれを大きく後退して避ける。
「はあ、はあ」
 弓納は肩を大きく上下させる。
「どうした、流石に疲れてきたかい?」
「心配無用です」
「には見えんな。ふむ、しかし君は役目を果たせたみたいだ」
 屋敷から大きな衝撃音が起きる。弓納は咄嗟に衝撃音のした方向に視線を向けた。
「何の音?」
「さて、何の音なんだか」
 豊前翁は肩をすくめる。弓納は途端に攻撃の手を止め、その衝撃音の正体を探り続けた。
「さっきから、屋敷の方ばかりに気を取られているようだが、私のことはいいのかね?」
 弓納はハッとして豊前翁の方を向く。しかし、男は特に何をするわけでもなく不敵な笑みを浮かべながらそこに突っ立っていた。
「別に貴方のことを失念していたわけではありません」
「そうか。だが、そんなに気になるなら行ってみては如何?」
 その提案に弓納は眉を顰めた。
「貴方は一体何を言っているのですか?」
「言葉通りの意味だ。屋敷の様子を見に行けばいいと言っているのさ。なあ、君は私の足止めが目的だったのだろう? なら、私は何もしないから、素直にあっちの方にいけばいい」
「いいえ、信用できません」
「そうか。それならこれでどうだ」
 豊前翁はそう言うと、手に持っていた扇を弓納の前に放り投げた。そして徐に両手を上に挙げた。
「これで私は君と戦うことを放棄した。ああ、降参と取ってもらっても構わないよ」
「……よく理解できません。貴方の目的は」
 慎重に芝生の上に転がった扇を拾い上げながら、弓納はとぼけた表情をする男に尋ねる。
「別に、君達と対峙することではない。この前は確かに君達、ま、正確に言うとあの太一という青年が目的だったのだがな。あれから色々あって最早それはどうでもよくなった」
「そうですか」
「ちなみに全部衣服を脱げなどとは言わないでくれよ。私の得物はそれだけだ。本当だよ」
 とぼけたように豊前翁が言うと、弓納は少し頬を染めた。
「そんなこと言いません。ですが、一先ず信じましょう」
「やれやれ」
「仮にもし後ろから襲ってきたら、遠慮せずに叩き潰します」
 そう言って弓納はその場を後にするのを見届けると、豊前翁は肩をすくめる。
「いや、怖いね、それは」