異界手帖 六章:思い出

「まるで狐につままれた気分だ」
 社務所の壁にもたれかかりながら開口一番に天野は言った。頬に絆創膏を貼った彼は腕を組んではいるものの、しきりに右腕や脇腹をさすっている。
「実際、狐だったんでしょう?」
 天野の惨状とは裏腹に、座布団に座って呑気に茶を啜りながら望月は言った。
「まあな。あの給仕、突然尻尾を一杯生やすもんでつい見とれてしまってな、このざまだ」
「ちなみに何本生えていたの?」
「9本だったかな、いや、4本、だったか?」
「結構数に開きがあるようだけど」
「あーあれだ。それは多分、尻尾の数をその都度変えていたんだよ。きっとそうだ」
「まあいいわ、尻尾の数なんて」
「それよりどうしたもんかね。こんなんじゃ大学に行こうにも行けん。はあ、困ったもんだ」
 大げさに顔を覆う天野を望月は呆れたよう目で見る。
「全く、ちょっと擦り傷を作っただけじゃない。そこまで深刻じゃないでしょう? 」
「望月さんよ。俺はな、あんたと違って文化的な生き物なんだ。だからこれくらいの傷でも一大事さ」
 得意げに語る天野。望月はそれを聞いて薄い笑みを作りながら立ち上がる。
「へえ、言ってくれるじゃない。それじゃあ、貴方がやむを得ない事情で休暇を申請出来るように私が手伝ってあげる」
「ああいや、さっきのはなんだ、ちょっとした言葉の綾というかだな。まあ落ち着きなさい、望月さ、あっ! いてえ」
 望月は天野の手首をねじりあげる。
「あら、随分気持ちのよさそうな声をあげるじゃない。やっぱり天野君は真性のマゾヒストねえ」
「わっ! ふ、二人共、何やってるんですか!?」
 部屋に入ってきた太が眼前の光景に目を丸くする。望月は太の姿を認めると、慌てて天野から離れて元いた座布団に座る。
「コホン。太君、大したことじゃないから気にしないように」
「助かった太君、君がいなかったらこの……いや、まあ大したことじゃないから君が気にする必要はない」
 望月にニッコリと笑みを向けられ、天野は静かに言った。
「そうですか、それならよかった。――あれ、弓納さんは?」
「小梅ちゃんならそこに」
 望月が部屋の一角を指し示す。そこには、仰向けになったまま弓納がすやすやと寝息を立てていた。
「昨日の件で疲れてたのよ。だいぶ体力を使ったみたい」
「ま、正直弓納が加勢してくれたのは助かった。結局逃げられてしまったが」
「……凄いですね。普段はおっとりしているのに」
「まあ、弓納も伊達に客士をやってきたわけじゃないからな。それより、方針はどうする」
「そうね、先ずは状況をまとめないと」
 望月は天野と太を座卓に集めて、卓上に広げていたメモ書きを二人に見せる。
「最初に、大鯰の件。これは疑いようもなく生野綱を狙った者の仕業。また、最近市内で頻発している怪事件は生野綱とそうした曲者の小競り合いの結果起きたものね。では何故彼は狙われたのか? 理由は簡単。『真統記』を所持していることが判明したから。ここまでで何か質問はない?」
「あの、『真統記』とは一体何なのでしょうか?」
 太は生野と話していた時からずっと疑問に思っていたことをぶつける。祖父が語ってくれた書物。いくらか呪術に関することを知っていたとはいえ、その書物の存在は只の作り話かと思っていた。しかし、それが望月の口から発され、生野もその存在を認めていた。
「その名前が出た途端、生野氏の態度が一変しました。それは、一体何なのでしょうか?」
 あえて、自分が祖父からその書物について聞かされていたことを伏せ、望月に尋ねた。
「ごめんなさい、話してなかったわね。太君、貴方がどこまで知っているかは定かではないけど、この書物は簡単に言ってしまうと禁書の類よ。中には幾千幾万、いえ、多分それ以上の秘術が眠っているとも言われていて、決して有象無象の類の手に渡ってはいけないもの。実は、この神社は編者の一人と少し縁があってね。古い記録に『真統記』に関する記載があるの。その存在自体もごく一部を除いて知られてないのだけれど、迂闊にこの書物のことを口に出してはいけない。それは肝に銘じておいてね」
「は、はい」
 確かに、そんなことを祖父も言っていた気がする。だからこそ、作り話と思いながらもこれまで口には出さないようにしていた。
「で、先日の件で分かった通り、彼らは一人一人が非常に厄介だわ。もしかしたらまだ何か隠しているかもしれないし、下手に戦いを挑むものじゃない。だから、上手いこと一人ずつ袋叩きにしてしまいましょう」
「袋叩き、だって?」
 天野は首を傾げる。
「ええ。趣味じゃないかもしれないけど、今はそれが最善策。少なくとも私は彼らに対しては個別に対処していくべきだという評価をしているけど、貴方はどうかしら?」
「問題ない。別にやり方にこだわりがあるわけでもないしな」
「私も同感です」
 その声に三人が振り返る。弓納が眠そうに目をしばたたかせて、太の後ろから覗き込むようにメモ書きを見ていた。
「口惜しいながら、私も劣勢を強いられました。今回の件はやはり独立独歩では厳しいかと」
「小梅ちゃん、もういいの?」
「はい。バッチリです」
「よし、それじゃあ話に加わってもらいましょう」
「なあ望月。個別に対処するのはいいんだが、具体的にはどうするつもりなんだ?」
「それについてはもう対策を考えてあるの」
 そう望月が言った時、インターホンが鳴った。
「というわけで丁度来たようね」
「行ってきます」
 太が廊下に出ていく。