異界手帖 九章:たまき

「神代の記憶を取り戻した代償なのか、私はここ数年来以前の記憶を全て失ってしまったわ。不思議ね。そんなものは些細なことの筈なのに、失ってしまった記憶はとても愛おしいものだったように感じる」
 たまきはそう言って苦笑する。
「たまき。君は一体、何をどうしたいんだ?」
「はじめ、北宮神社で私と二回目に会った時のこと、覚えていて?」
「北宮神社で……」
 太はたまきと会った時のことを反芻する。

『実は近いうちに遠い所から親しかった人達が訪ねてくる予定なの。だから、無事に彼らが来られるように参拝しているのです』

「親しかった人達って、誰?」
 たまきは目を細めたまま、何も答えない。
「君が大昔の人間なら、親しかった人達なんて訪ねてきようがない。そもそも、遠い所って――」
「異界」
「え」
「人ではないものの世界よ。私、やちたみたまきが成立した時、彼らはその代償として異界へと旅立った。でも私はそこに行くわけにはいかない。現世に私達がいたという証を紡いでいかないといけないから。でも」
 たまきは目を閉じて俯く。
「私はこうなる時に決めたの。必ず異界への門を開き、私達の故郷をもう一度作り直そうって」
「まさか。そんなこと、出来るわけがない」
「あら、貴方の口からそんな言葉が出るなんて、少し驚きよ」
「何を、言ってるんだ」
 思いがけないことを言われ、太は顔をこわばらせる。しかしそんな太の様子を見て、たまきは意外そうな顔した。
「はじめ。ひょっとして貴方は、自分のことを知らないの?」
「僕のこと? そんな、自分のことはよく分かってるつもりだ。僕は、こちら側の世界を少し知ってるってだけでそれ以外は普通の大学生だ」
「そう、可哀想な子。誰も貴方に貴方のことについて教えてくれなかったのね」
「何を言っているんだ君は……?」
「なら私が貴方に伝えましょう」
 たまきは太の目の奥をじっと見据える。まるで、その事実から目を逸らすことを許さないとでも言うように。
「はじめ、貴方は私と同じ。人間であって、人間ではない」
 たまきは淡々とそう言った。
「……え?」
 太は我が耳を疑った。寝耳に水を打たれたような気分だと彼は思った。人間であって、人間ではない。その言葉は矛盾している。
「たまき。君の言っている意味が分からない。君は僕の何を知ってるっていうんだ」
「貴方が何者なのかを知っているわ。貴方は、太の家系に連なる者。それがどういう意味か分かるかしら?」
「それくらい」
 知っている、と言おうとしたが、寸前で出かかった言葉を止めて目を伏せながら首を横に振った。今は没落して見る影もないが、遥か昔、自分の家系はそれなりに由緒ある家だったということは祖父から聞かされていた。しかし、だからどうだというのだ。所詮は塵に消えた栄華だと気にもかけず、それ以上のことを自分は知らなかった。
「太の家系に連なるから、どうしたっていうのさ」
「太の家系は、ある書物を代々守り続ける。そのことは秘匿され、知っている者は一握りの者達のみ。数十億ページあるとも言われるその書物は大きく"外篇"と"内篇"に分かれ、外篇については誰もが閲覧可能だけれど、内篇はある者にしか開くことを許されていない。では何故内篇を開ける者は限られているのか? 何故なら、その書物は今となっては信じられないような奇跡を起こす神代の秘術が記載されているから。そうね、例えば、黄泉がえりとか。だから、そんな代物を迂闊に使わせないようにするために、彼らは絶対に解けない封をその書物に施した。そして有事の際、あるいは定期的な内容の更新のためにその封を解くことの出来る子を用意するようにした。はじめ、つまりそれが貴方よ」
「……本の名前は」
「その本の名は『真統記』。真実を写し取りし禁断の書物。さあ、はじめ、貴方の力を貸して頂戴」