鬼姫奇譚 四章:羽白

「ふう。軽い冗談のつもりが、まさか刃物まで向けられるとは思いませんでした」
 羽白と呼ばれた中年の男はそう言いながら優雅に顎髭を擦るが、それを一緒にベンチに座っていた八重千代が睨め付ける。
「当たり前です。いきなり襲われたら誰であってもそう対応しますとも。全く、昔から貴方はそうでした。その軽々しい所は治らないのですか」
「それはどうでしょうなあ。人の性は性である故に治すのは困難かと思いますが。だが待てよ、もしその性を矯正出来てしまったとしたらそれは果たして私だろうか。ううん、気になるところではある」
「禅問答は結構です」
「あの、お二人さん」
「おお、そういえば。こちらの偉丈夫は何処のどなた?」
「ああ、申し訳ありません先生。すっかり忘れておりました」
 何の衒いもなく八重千代はきっぱりと言った。自分は存在感がないのだろうかと、天野は心の中で思わず落胆する。
「このお方は天野先生。大学の先生をやっておられる博識な方です」
「ほほーう、つまりインテリ。それにしてはガタイがよい。まるで漁師か、大工のようだ」
 天野を羽白はまじまじと見つめながら言った。
「それはどうも。そういうあんたは噂に聞く羽白さんかい」
「いかにも。昔はそれなりだったのだがなあ、今はこんなざまさ。だから懲らしめても財宝なんぞ出てこないよ。もちろん、打ち出の小槌も」
「へえ、そうですかい」
「羽白。積もる話もありますが、今は何より聞きたいことがございます」
「それは僥倖。実のところ私も貴方に会うためにこうして人里に降ってきたのですから。まあ最初は、少し物見遊山程度に町を歩き回ってしまいましたが」
「単刀直入に聞きます。羽白、仙涯境への行き方を教えてください」
「……そのことを知っているということは、もう彼らは来ていたということかな?」
「ええ。そして、八津鏡を持って行かれました」
「そうですか。やはり」
 羽白は束の間目を閉じて眉根を寄せる。そして、再び口を開いた。
「私はそれを千代君に知らせるために、ここまで参ったのです。ですが」
「聡文君が先に千方院家に到達してしまったというわけか」
「ええ。今となっては後の祭りだ」
「いいえ、まだ終わっていません。すぐにでも取り返せばいいだけの話です」
 八重千代は座っていたベンチからゆっくりと立ち上がる。
「あの、どうしても行かれるつもりで」
「それはどういう意味ですか?」
「聡文殿もアレのことは心得ておりましょう。分別のつかぬ稚児が刀を得たわけではないのです。どうぞその行く末を見ては」
「羽白、本気でそう思っているのですか? もはや過ぎてしまった過去の報復を良しとすると」
「いえ、私は」
「……あの子は何も知らない。知らないからこそアレを屋敷から持ち出そうなんて馬鹿げたことを思ったのよ」
「これはこれは、出過ぎたことを申しました」
「そうと決まれば場所を教えてください。すぐにでも向かいましょう」
「話に水を差すようで悪いんですが、そんな大事なものなら、彼らはそこそこ厳重で警備している筈だ。あー、なんだな、その、慎重にはなった方がいいと思うが」
「先生、たとえそうだとしても関係ありません。これまでだってそれくらいの困難は幾度とありましたが、その度に乗り越えてきたので――」
「落ち着きなさい、姫さん」
 低くて腹の底に響く声。束の間の間、辺りを静寂が包み込んだ。
「もうあれから数日経ってるんだ。一時間や二時間遅れたところでそう変わりはせんよ」
「そう、ですね。すみません、先生」
「まあですが、確かにあまり悠長なことを言って事態を悪くするわけにもいきませんな。羽白さん、あんた、道案内くらいしてくれるだろう」
「分かりました。まあ元はといえば、彼らを止められなかった私に責任があるようなものですからね。罪滅ぼしといっちゃなんですが、可能なかぎり助力しましょう」
「それは有り難い。まあ色々あるでしょうが、可能な限りお願いしますよ」

―― 鬼姫奇譚 第四章 終わり