鬼姫奇譚 七章:わだかまり

「ところで八重千代殿。傷の方は大丈夫なんですか?」
 男の妖怪と別れた後、また当て所もなく歩いていた天野は言った。
「ええ、お陰様でもうすっかり」
「そいつはよかった。なに、あの日から一日も経たない内に元気になってましたから、却って心配だったのです」
「ふふ、鬼というのは傷の治りが早いのです。でも、治りが早すぎるのもいささか考えものなのですよ。滅多なことでは誰も心配してくれないですし」
 少し困ったように八重千代は言った。
「ところで先生。こちらも質問ですが」
「はい、何でしょう?」
「どうしてあそこが分かったのですか? 聞けばあそこは外に気配が漏れないように鬼道が施されていたということです。なればあのように迅速に到着するのは至難の業かと」
「なに、大したことじゃない。貴方と羽白さんに発信機を付けていただけさ。万が一のことがあってはいけないと思っていたのでね」
 そう言って天野は人差し指を立てる。すると、そこから黒い文様のようなものが飛び出し宙を泳ぎだす。
「前も言いましたが、フミツカミ、というやつです。貴方の入った建物に羽白さんがほぼ同じくらいに向かったものだから、絶対に何かあると踏んだというわけです」
「私だけでなく羽白にも? いつの間に」
「ほら、別れ際に握手した時です」
「ああ、そういうことでしたか」
「気付かれないよう手伝いに探査用のフミツカミを憑かせました。まあ、進んで握手をするなんてガラじゃなかったので、微妙な神経を使ってしまいましたが」
「それであれば納得です。しかし羽白はともかく、女性の行動を監視するなんて破廉恥な」
「いえいえ、そんなやましい心などありませんよ。ただ単に貴方が心配だっただけです」
「ふふ、冗談ですよ」
 そう言って朗らかに八重千代は笑みを浮かべる。
「え、はあ」
「おおーい」
 天野が困惑していた所に男の呼び声がした。
「ここにいましたか。探すのに苦労しましたぞ」
 呼びかけたのは羽白である。
「あら羽白。どうしたのかしら?」
「聡文殿がお呼びのようです」
「そうですか。それでは、参らないわけにはいきませんね」
「大丈夫なんですか。また謀でもしてるんじゃないんですかね」
 天野は怪訝そうな顔をして羽白を見た。羽白はばつが悪そうな顔をする。
「天野殿。どうかそのことはご勘弁を。弁明のしようもありませんが、少なくとも今回はそんなつもりは毛頭ありませぬ。もはやそんなことをする手だてもありませんからな」
 羽白は言った。後で判明したことだが、羽白も今回の騒動の一端を担っていた。「取るに足らない理由」と彼は頑としてその理由を語らないが、羽白も自分たちを捨てたのだという者に思うところはあったらしい。何故なら、百数十年前の抗争で彼も自分と近しい者を喪ってしまったからである。それが、聡文に協力する要因となった。
「大丈夫ですよ先生。いざとなったら暴れますから。それに羽白、私を刃を突き立てたこと、忘れていませんよ?」
 八重千代はグッと拳に力を込めて言った。
「おお、ちょっと洒落になりませんな。ふむ。そうとなれば私はそろそろお暇しますかね」
 その場を後にしようとした天野を羽白は慌てて引き止める。
「お待ちを、天野殿。貴君も来てくれとのことだ」
「はあ? 何故俺が」
「まあまあ先生。もしお時間が許すのでしたら、どうか一緒に来てはくれませんか?」
 八重千代の頼みに天野は「ううむ」と頭を掻いて唸る。
「仕方ない。だがまさか、意趣返しとかじゃああるまいな」
 それを聞いて羽白は笑う。
「ふはは。なるほど、千代君に付く悪い虫だから放っておけんということか! もしそうだったら愉快だ」
 いや痛快だ痛快、などと羽白が面白可笑しそうに笑うのを見て天野は呆れ返る。
「こっちは一ミリも楽しくないんですがね」