ロストミソロジー 一章:白い髪の少女

「ああ、もうついてない」
 街もすっかり寝静まった頃、青年は帰宅への途をゆっくりとした面持ちで歩いていた。
 まだあどけなさの残るその青年は、当初はもっと早めに、具体的には夕暮れ頃までに帰宅の途につくつもりでいた。しかし、諸般の事情が重なったことにより事態はもつれにもつれ、遂には人通りがなくなる時刻にて帰ることと相成った。
 本来の帰宅予定時刻より大幅に遅れてしまったのである。それならば勇み足どころか、小走り、いや、もはや人目を憚る必要がないのであるから走ってすらよかったところである。しかし、彼はそうはしなかった。
 理由は簡単である。大学生であり、一人暮らしである青年には帰りを待つ者もおらず、かつ取り立てて急に追われている事案など存在しなかったからである。もはや大幅に遅れてしまったのであれば、早く帰ろうが遅れて帰ろうが同じことである。ならば、急ぐ必要もあるまい。そうして彼は、帰宅への途を早めるどころか、却って最短ルートから外れた迂遠なルートを辿るに至ったのである。
 青年は通りから外れた少し小さな小道に逸れた。特に理由があったわけではない。ただ何となくそんな気分だったからである。
 両脇を無機質なアスファルトに囲まれたその暗い夜道にはポツリポツリと街灯が置かれ、その明かりを頼りに青年は小道を進んだ。
 しかし、その呑気な行進は"それ"によって途端に阻まれた。
「これって、もしかして」
 行き倒れ? "それ"を青年は思わずそう呟いた。事実、そこにいたのは人と思しきものだったのである。
 青年はおそるおそるそれに近づいてそれが確かに人、さらに言えば十代後半頃の少女らしいことを確認する。そしてそこは街灯のスポットライトを浴びない暗がりの中ではあったが、そのくっきりとした白い髪は、彼女の存在を際立たせるのに十分過ぎる程であった。
「あの、大丈夫?」
 青年はおそるおそる声をかける。すると、仰向けに倒れていた少女は少しうなされたような声を上げて、ゆっくりとその瞼を開けた。
「大丈夫? どこか苦しい所はない?」
 青年は内心少し焦りながらも、なるべくそれを相手に悟られないように落ち着いたゆっくりとした声で話しかけた。少女は青年を一瞥したあと、「ここは?」と徐ろに尋ねた。
「ここは、えーと、x街の路地だよ。君はここに倒れてたんだ。どうしてここに倒れてたか覚えはない?」
 ゆっくりと起き上がる少女に青年は語りかけたが、少女は首を振るばかりである。
「そっか、困ったな。とにかく、警察に連絡して保護してもらわないと。後、一応病院で診てもらった方がいいかも」
 青年は徐ろに携帯電話を取り出そうとした。しかし、その腕を白い整った手が制止する。
「だめ」
「え?」
「多分うっかり寝てしまっただけ。私は大丈夫だから。連絡しないで」
「大丈夫って言っても、じゃあ家に帰れる?」
 その問いに、しかし少女は首を振る。
「他に行く宛がないのなら、一旦警察に保護してもらうのが一番安全だと思うよ」
「それなら、私、貴方のお家に連れてっ――」
 言いかけて、少女の体はゆっくりと前に倒れるので、慌てて青年は彼女の体を抱きとめた。
 やっぱり大丈夫じゃないじゃないか、そう青年は言おうとしたがどうやら少女はまた寝てしまっただけらしく、静かな寝息を立てていた。
「はあ、仕方ない。一日だけだからね」
 青年は少女をその小さな体に背負い、暗い闇道をのそのそと進んでいった。