ロストミソロジー 二章:素性

 菅原市に住みたがる人間は数多くいる。それはこの街が大都会だからではない。かといって、田舎だからというわけでもない。規模としては、日本を代表する都市群より一つ格落ちする程度の規模の街であり、その観点からだけで言えば中途半端な街であった。しかし、それでもなお人がこの街に住みたいと唱えるのは、その日常生活の快適さ故であった。しばしば山海郷などと喧伝されるように、背には五百から千メートル程度の登山に適した山々、目前には見晴らしのよい湾があり、その間に挟まれるようにして街は存在していた。そうして成り立っている街にはそこそこの博物館や図書館などもあれば、一方では外周二キロメートル程度の公園もある。それだけでなく、繁華街に行けばデパートがあり、商店街があり、港地区であるベイシティには小さな遊園地もあった。
 要するに、これだけコンパクトにそれなりのものが集まっているこの街は観光や贅沢を好む人間には今一つ物足りない街だが、それなりに充足で快適な生活を送れればよいと考える人間にとっては、理想的な街であるのだ。そして、多くの人間というものはそれなりに人生を楽しめれば差し当たって問題はないという生き物なのだから、必然的にこの街に住みたがる人間は数多いのだ。
「だからと言って人を案内するには、今いちこれといった強い名所は存在しないのは中々痛いところだね」
「でも、さやちゃん喜んでそうで何よりです」
「ごもっとも」
 繁華街である一宮の一角に佇む喫茶店。店内の奥まった場所のウッドチェアに太と弓納は腰かけて談笑に興じていた。
 市内の商店街や博物館、遊園地などを探訪した後、一息をつくために入った喫茶店だが、さやはお手洗いのために一時的に席を外していた。
「弓納さん」
「はい、何でしょう?」
 頼んだコーヒーフロートのアイスをスプーンで無心に突くのを止めて、弓納は顔を上げた。
「さやについて何か分かったことはあった?」
「そうですね。とりあえず、いくつか分かったことがあります」
 別にそんなつもりは毛頭なかったが、まるでさやを調査するつもりで街に連れ出したみたいで、なんだか悪い気がしながらも弓納は自分の考えたことを太に伝え始めた。
「まず、彼女は記憶喪失ですが、見た目相応、もしくはそれ以上の社会的な知識を持っているように思えます」
「それは、確かにそうだね」
 確か、一般的に記憶喪失というものは脳にしまってあるエピソード記憶が何らかの理由で引き出せない状態だと太は理解していた。パソコンや携帯で例えるならば、保存されていたメールや画像、動画のデータなどが破損してしまった状態であろう。データが取り出せないだけで、文書ソフトや画像編集ソフトを使うことは出来るし、新しい文書や画像を作成しても何ら問題はない。だからこそ、彼女は日常生活に支障をきたすことはないのだ。
「でも一般常識に疎い所があるかも。これあまり人のこと言えた義理じゃないのですが」
「あはは、それを言うと僕もだね。ところでさ、弓納さん。この街歩きのチョイスって一時に滞在する場所が少なくて、色々動き回っている気がするけど、それって何でなんだろう? 実は何か考えがあってこうしてる?」
「実はそれとなく考えてはいました。あえて街の人間が休みに行きそうな場所を中心に予定を組んでみたんです。そうしたら、何か思い出してもらえるのかもしれないと思って」
「なるほどね」
 太は頷く。もしさやが市内の人間であるのなら、幼い頃の記憶なり、最近の記憶なり、何かが甦る可能性があるだろう。専門的なことは分からないが、記憶喪失といっても必ずしも記憶がまっさらになるわけではあるまい。破損した記憶が残っていて、何らかの補足情報が外部から付与されることによって記憶が修復され、思い出すことがあるかもしれない。

「ですが、さやを見る限りそんな様子はなさそうです。何となくといいますか、やっぱり市外の子なのかもしれないです」
「隣接した市や町から来たということもあるのかな。この街はこの辺りでも一番発展しているし」
 太は顔を伏せて口に手をあてて思案を始める。それを見て、弓納は少しだけぷっと笑う。
「太さん。探偵みたいですね」
「え、ああいや、これは癖みたいなものだよ。何か考える時って、やっぱりそれらしい姿勢をしていた方が考えやすいんだ」
「犯人が逃げるわけじゃないですし、そんなに差し迫って考えなくてもいいですよ。私は、少なくともさやちゃんが喜んでくれたらそれでいいです」
「ごめんごめん。ミステリもかじってる手合だから、そういうのが現実にあるとつい気になってしまって。よくないよね、ほんと」
「でもそんな太さんは面白いです」
「面白いって、はは」
 ふと太が背後の店内を見やると、お手洗いからから戻ってきたらしいさやがこちらに向かって歩いてきていた。店内にはもちろん明かりは点いていたが、丁度お手洗いの場所は光量の少ない場所で、その相対的な光量の違いによって生じる暗さはどこか異界じみていて、そこを白い髪をなびかせて歩いてくる少女はさながら異界からやってくる妖精のようだった。
「どうしたんですか、はじめ? 私に何か付いてました?」
「ううん、何でもないよ」
「そう? ならよかった」
「ねえ、小梅ちゃん、はじめ。そういえば、さっき街歩いている時に気になるスポット見つけたの。ちょっと寄っていいかな」
 少女は無邪気に笑いながらそう言った。