ロストミソロジー 四章:影、暗雲

 女はベイシティの外れにポツンと立つ七階建ての雑居ビルの中に入っていき、灰色の殺風景な階段を登っていく。そして、一番上の七階まで登りきるとすぐ目の前には自動販売機、その横手に中が見えないガラス張りのドアがあった。女は廊下の脇にそっけなく置かれている電話機には目もくれずそのドアを開け放って中に入っていく。
 中は長方形の空間。乳白色の壁紙が貼られた部屋の真ん中にはこれといって特徴のないソファとテーブル。奥には質素なテーブルとオフィスチェア、そして老成しきったかのような雰囲気をまとった中年の男が座っていた。
「久しぶりだな。バルバラ」
「ええ、久しぶりデスね。ショウイチ」
「わざとったらしい訛りはしなくてもいいよ」
「たまにしたくなるのよ。いかにも外国人っぽくていいじゃない」
 バルバラと呼ばれた女は言った。
「それで、久しぶりに故郷の土を踏んだ気分はどうかな?」
 ショウイチと呼ばれた男がバルバラに問うと、バルバラは「さあ」と曖昧な返事を返す。
「故郷といっても、自分の祖先のってだけで、私の故郷じゃないもの。そういう感慨はわかないわ。今回のことだって、義務感みたいなものだし」
「そうか、それは残念だ」
「ところで、そこにいる彼を紹介してくれないのかしら?」
 バルバラは壁際にいつの間にか立っていたそれを見ながらいった。バルバラは彼といったが、それは黒衣を纏っており、実際の所その中身が男であるのか女であるのか判別することは出来なかった。
「ああ、彼は今回協力してくれることになった者だ。私は彼を勝手にファントムと呼んでいる」
 黒衣のそれは、バルバラの方を向くと軽く会釈をした。バルバラはそのフードの中身を垣間見たが、それは劇場で使われるような仮面を着けており、その顔を窺い知ることは出来なかった。
「ファントムと呼んでいる? どういう意味かしら」
「そこの御仁は自分の名を明かしたくはないということだ。好きに呼んでほしいと言われたので、仮にファントムと呼ばせてもらっている。まあ、見たままの印象で付けた名だがな」
「ふうん、そう。じゃあ私もそう呼ばせてもらうわ。よろしくね、ファントム」
 その挨拶にファントムは軽い会釈で返し、また元のように置物の如くそこに佇んだ。
「それで、ショウイチ」
「何だね」
「貴方はそれでいいのかしら?」
「というのは?」
「折角築いた地位、名誉、信頼。得たものは一杯あるでしょうに。酔狂なものね」
 来客用と思しきソファに深々と腰を下ろしながらバルバラが言うと、男は口元に微かに笑みを浮かべる。
「構わないさ。そんなものは、この目的の前には取るに足らないものだ。いやそもそも、この永い年月は全てそのための布石であった」
「へえ。凄いわね、その根性、というか忍耐力。あるいは執念?」
「別に大したことじゃない。目的のために今は我慢するというのは誰もがやってきたことだ。単に私の場合はそれを代を重ねてやってきたに過ぎない」
「ふうん、まあいいわ。それにしてもまあ、これから大事になるというのに随分と少人数よね。本当に大丈夫?」
 バルバラは辺りを見回しながら言った。
「私達は戦をしにきたわけではないのだから、このくらいの人数が丁度いいんだ。人数を増やすと"彼ら"に勘付かれてしまうからな。それに、一度事が成功すれば難色を示していた者達も呼応するだろう」
「その根拠は?」
「実際に行脚しての感触だ」
「あら何それ、貴方にしては適当じゃない?」
「いいや、適当でない。確信がある」
「まあそれもいいわ。どうせ私はこの件が済んだら降りさせてもらうつもりだし」
「先ずは儀式の成功。全てはそれからだ」
 そうして、窓の景色を見やりながら男は「さや」と呟いた。