ロストミソロジー 四章:影、暗雲

 見渡す限りの平野が広がっている。
 その平野には命が芽吹いていた。金色に輝くその平野を子供達が満面の笑顔で駆けていく。
 子供の一人が躓いて転んでしまった。その子は痛み徐々に感じてきたのか今にも泣きそうな表情になり、そして、案の定泣いてしまった。
 その様子を丁度近くで見ていた黒髪の少女はその子の傍まで歩いてきて、そっとその場に腰を下ろしてその子の頭を撫でて上げた。
 痛かったね、でも大丈夫よ。少女はやんわりとした笑みでその子を宥める。
 その子は少しずつその泣き声を小さくしていく。そうしてすっかり泣き止んでしまうと、また子供達と何処かへ走り去っていった。
 少女は周りを見渡す。どこまでも平和で愛らしい風景。
 少女は、その光景をまるで自分の子供でも見るかのような目で見渡していた。

 夜も更けてきた頃、弓納はふと目を覚ました。
「さっきのは、誰?」
 目が冴えている。先程の夢が鮮烈だったせいだろう。弓納は体をゆっくりと起こして、隣の布団を見た。
「さや?」
 布団はもぬけの殻であった。弓納は辺りを伺うが、さやらしき人影も気配もなかった。
 トイレかな、弓納はそう思ったのも束の間、下の階で戸を開ける音がするのが聞こえた。弓納は布団を抜け出し、窓を開けて下を見る。
 玄関の前にはさやがいた。彼女は寝間着のまま静かな足取りで、どこかへ向かって歩いていた。
 弓納はさやを確認すると、音を立てないように階段を降りてそのまま玄関まで行き、戸を開けた。
 澄んだ静謐な空間が辺りを支配している。弓納はそんな静けさに浸る間もなく、さやを探す。しかし、玄関前の通りには既にさやはいなかった。弓納は、先程さやが歩いていったと思しき方向へと向かって早歩きで歩いた。
 家から出て西の方へ三十メートル程歩き、角を右に曲がる。
「さや」
 誰もいない通りを歩いているさやがいた。彼女は通りの左手にある公園に吸い込まれるように入っていった。
 何で公園に? 弓納は疑問に思いながらも、さやの後を追って公園に入り、木立の影に隠れた。
 弓納は影からそっと様子を伺う。さやは特に何をするでもなく、ブランコの近くでぼーっと突っ立っている。
 しばらく様子を見ていた弓納は、特に何も変化がないのを見て取ると、木立から出てきて、さやの元へと駆け寄った。
「さや、私分かる?」
 さやの両肩を掴んで、弓納は真正面からさやを見た。反応のないさやのその目は、やはり焦点が合っていなかった。
 催眠術だ、弓納は確信した。呪術の中でも基本的なものの一つで、相手を暗示にかける技術。普通催眠術では相手に暗示をかける場合、施術者とその相手が同じ場にいなければならない。しかし術者の中には、遠隔で催眠術をかけられる者もいると弓納は聞いたことがあった。それはしばしば夢遊病と間違えられるのだが、夢遊病との決定的な違いは、かかった者は施術者の明確な意図に基づいて行動しているということである。
 でも何でこんな所に、弓納が考えていると背後から静かに歩み寄ってくる足音があった。弓納は咄嗟に振り向く。
 公園の街灯に照らされる場所、そこに男が立っていた。ワイシャツに無地のレッドワインのベストを着たその男は、まるでファンタジーから飛び出してきたエルフのような端正な顔立ちで、その無駄のない体つきと背の高さがより一層その非現実感を際立たせている。そして、男が常人ではないと確信させるものがその手にはあった。
 日本刀。数百年前の武士であればいざ知らず、現代の日本にて平然とそれを手にして立っている男は明らかに異様な存在であった。
「ふむ、まさか彼女の方から出てきてくれるとは僥倖、と思ったのだがな。もう一人付いてくるとは思いもしなかった」
「貴方は」
「ふむ、君とは何処かで会ったこともある気がするな」
「秋月さんですね。考本の件でお世話になりました」
 秋月洋介。以前、弓納がちょっとした騒動に巻き込まれた際に会ったことのある客士の男であった。
「ああ、思い出した。東方文庫にいた子か。確か」
「弓納小梅です」
「そう、弓納君、だったね。それで弓納君はどうしてここに?」
「ここにいる友達が出ていったから迎えに来ました。貴方が彼女をここにおびき寄せたんですか?」
 そう聞かれると、サラサラとした長髪をなびかせながら男は首を振った。
「いや、私ではない」
「そうですか。では、何故ここに?」
「そうだな。だがその問いに答える前に、周りにいる者をなんとかした方がいいのではなかろうか」
 言われて、弓納はハッとして辺りを見回す。
 影。公園の至る所に黒衣を纏った黒い靄のようなものが湧いている。これといって特徴のない白仮面を着けたそれには目と思しき爛々とした青い輝きがあり、その塊から靄に包まれた四本足が生えていた。足のシルエットは人間の手のようで、いかなる動物にも例えがたいそれをあえて例えるならば、影人間という言葉が最もふさわしかった。
 それらがさやを呼び寄せた者なのだろう、弓納は呪術によって槍を編みながら考える。しかし、それらは様子を窺ったまま、何の動きも見せない。
「気配が全くなかった」
「そういうものなのだろう。私も目視でやっと確認出来た。さて、このまま観察され続けるのは気分がよくないな。大人しく引き下がってもらおうか」
 男は手にしていた鞘から刀を抜き、静かに腰を落とした。
「秋月さん」
「君はそこで少女を守れ。私一人で片付ける」
 刹那、弓納とさやの背後にいた影が吹き飛んだ。上空高く吹き飛場された影はボロボロになった黒衣と共にそのまま雲散霧消してしまった。
 なんて速い。弓納は率直にそう感じた。影を薙ぎ払ったのは秋月。彼は目の前から消え失せたかと思うと、瞬きもしないかという間に自分達の背後にいた影を薙ぎ払ってしまったのだ。
「十とちょっとか」
 そう呟くと、秋月は次なる獲物へと飛びかかっていった。三匹目、四匹目と秋月が切り伏せていったところで目の前の相手が自分達に御しきれないものだと理解したのか、影は公園から逃げ始める。しかし、そうして逃げようとした者はもれなく秋月から放たれた黒い光弾の餌食となった。
「さて、これで全ての筈だが」
 秋月が視線を弓納とさやに戻すと、すぐ近くに影が二人に迫っていた。
「なるほど、隠れていたのか」
 だが、その影は先程までとは明らかに様子が異なっていた。
 そこにいた影は先程より一回りも二回りも巨大化しており、もはや小型の象並の体躯を誇っていたのだ。
 公園の入り口付近にいた秋月はその巨躯に怯む様子も見せずに刀を構え、その影へ刺突しようとした。しかし、
「っ!?」
 影を捉えていたその刀の軌道をずらし咄嗟に横に薙いだ。鉛のような手応え。それは確実に自分を殺傷しようとして放たれたものだった。
 考える間もなく、二発目、三発目とそれは秋月に襲いかかる。だが、秋月はそれを難なく叩き切った。
「これは間違いない」
 銃弾だ。だが周囲に殺気はない。つまりそれは域外からの射撃。それの意味する所はつまり、
「キエエエエエエエエエッ」
 影が奇声を発しながら、その塊の背に当たる部分から人間のような手を出したかと思うと、弓納とさやに、否、弓納など眼中にないかのようにさや目掛けてその手を伸ばした。
 不味いな、秋月は射撃への警戒でそれに対応出来ずに歯ぎしりした。恐らく影は雲散霧消したのではない。元々あれ一つだったのだ。それを分散させていたのは、おそらく曲者に対する陽動役が必要だったからだろう。そして、その役目を終えた者は本体の方に戻していき、最後に直接自分でさやへと手を伸ばしたのだ。確実にさやを奪うために。
「はあっ!」
 しかし、その目論見は脆くも崩れ去った。弓納がいつの間にか手にしていた槍を薙いだことで、その手は地面に叩きつけられ、続く二撃目でその巨躯を地面に打ち付けた。
 その影はしばらくピクピクした後、やがて溶けるように消えてしまい、後には白い無個性な仮面だけが地面に打ち捨てられた。
 それと同じくしてさやがゆっくりと地面に崩れ落ちる。
「さやっ!」
 崩れ落ちるさやを弓納は咄嗟に抱き抱えた。さやが目を閉じてすうすうと寝息を立てているのを見て、弓納はホッと息を撫で下ろした。
「ふむ」
 もう銃撃が来ないことを確かめ、秋月はゆっくりと刀を鞘に収める。
「お見事」
 秋月が言うと、弓納は秋月の方を振り返った。
「いえ、これくらいなら朝飯前です。って今は夜中ですが」
「さて、これで目下の曲者は去ってしまったわけだが。といって野放しにもしておくわけにはいかんか」
 そう言って秋月は銃弾の飛んできた方角の方を向く。
「あの、秋月さん」
「何かな」
「助けていただいたことは感謝します。でも、貴方は何故ここに来たのでしょうか」
「そうだな、この状況で隠しても仕方がないか。無論、そこの少女に用があったからだ」
「ひょっとして、貴方はさやを連れて行くつもりで」
「……否定はしない。もしここで私がその少女を渡せ、と言ったら君はどうするつもりだ」
「渡しません。何が目的か知りませんが、例え貴方と戦ってでもさやを守り抜きます」
 秋月は目だけを横に動かして二人を見た。力強くさやを抱きとめている弓納を見て、ふうとため息とも付かないものを漏らした。
「さや、といったかな。一旦その子のことは諦めよう。先に片付ける問題が出来た」
 そう言って数歩歩いた所で、ふと思い出したように足を止める。
「かけがえのない友人が」
「え」
「もし、かけがえのない友人が仮に大量殺人を犯そうとしていた場合、君はどうする?」
「……それは」
 唐突な質問に弓納は答えあぐねた。一体この男は何を言っているのか? その質問の意図が理解出来なかったし、その問いに答えを出すことは出来なかった。
「考えておくといい。人生生きていれば、そういう如何ともしがたい決断に迫られることがある」
 そうして、男は公園を後にした。
「んっ」
「さやっ!」
 さやはゆっくりと目を開けて、寝ぼけ眼のまま弓納をぼんやりと見た。
「小梅、どしたの?」
「ううん、何でもない。さ、帰ろう」
「帰る? ここお家じゃ」
「やっぱり覚えてないんだ。さやが寝ぼけて外に出ちゃったんだよ」
「もう、つくならもうちょっとましな冗談をついてよね」
 そう言って、またさやは目を閉じてすうすうと寝息を立て始めた。
「もう、冗談じゃないのに。次から布団に縛りつけちゃうよ」
 冗談を言いながら弓納はさやを背負って帰途へと着いた。
 帰宅の途、男の問いかけたことがいやに頭から離れなかった。

 見渡す限りの平野が広がっている。
 だけど、その平野は死の土地だ。多分、実り豊かな土地であった筈のその場所は既に息絶え、生命の芽吹く余地のない荒野と成り果てた。
 何て有様。
 その地に一人立っていた、煌めくような黒髪の少女はポツリと呟いた。
 彼女の周りには、無数の死が横たわっていた。無邪気な子供だったものが横たわっていた。
 少女は上を見上げる。地上の凄惨たる様子とは裏腹に、空は夕焼けに照らされ、美しく彩られている。
 少女は静かにその場にしゃがみ、地面に手を付けた。すると、周りにあった死は一様に蒼い炎を上げて燃え上がる。
 それは、とても暖かい炎だ。まるで屍者の魂を慰撫するかのような浄化の火。
 眠りなさい。私の子供達よ。
 そうして、そこから死は消えてしまった。後に残るのは何もない只の荒れ果てた荒野。
 いいだろう。お前達の出した答えがそれなら、私達もそれに応えるまで。
 本来優しかったのであろう、その少女の声には暗い憤怒がこもっていた。