ロストミソロジー 五章:少女と夕日

「シチュー?」
 社務所に入るなり太は言った。今日は特に顔を出す予定もなかったが、望月からさやの身に起きたことと、結界を強めるという連絡が来たことで、気になって神社にまで足を運んでいた。
 望月だろうか。これまでも度々料理の匂いがすることはあったので、それ自体特に気に留めるようなことではなかったが、二時過ぎという時間帯にあたって太は何も食していなかったこともあり、ことさら腹の虫が刺激されてしまった。
 無意識にその匂いの発生源まで歩いて行く。そして、そこで歩みを止めた。
 渡り廊下。確かあちら側は望月が生活してる所ではなかっただろうか。太は息を呑み、そして首を振って踵を返した。
 だが、一度引き起こされた腹の空虚感にどうにも耐えられなかった。生活が不規則になりがちな太にとって、いつもならこれより遅い時間帯に昼食を摂ることはざらではないが、今回は鼻腔を蠱惑する匂いがそれを許さなかった。
 一旦、神社を出て近くで何か買って食べよう。太はそう決心して社務所を跡にしようとした。
「あれ、太さん?」
 唐突に後ろから声をかけられた。
 太が振り向くと、渡り廊下には弓納が立っていた。エプロン姿をしている所を見ると、どうやら料理の主は弓納であったらしい。
「弓納さん」
「望月さんなら今はいませんよ」
「ああ、うん。そうみたいだね。望月さんから連絡があった。それより、その姿は」
「ああこれですか? 丁度お腹が空いていたので、少し料理をと」
 一応望月さんには連絡を入れておきました、と弓納は付け加える。
「そうだね。お昼時だもの」
 太のお腹から微かに音が鳴る。それを聞き逃さなかった弓納は笑って、「よかったら食べますか?」と言った。
「うーん、えっと、謹んでいただかせていただきます」
 恥辱と喜びがないまぜになった顔で太は言った。

「それにしてもさやが元気そうで良かった」
 居間で食事を摂った後、縁側で弓納と二人になった時に太は言った。
「昨日のこと、望月さんから聞きましたよね」
「うん。そのことはさやには?」
「いえ、話してはいません。でも、自分が原因で何かあったことは薄々感づいてるみたいです」
「そっか、さやは勘が鋭いからね」
 あまり一緒にいた期間は長くはないが、さやは細かなことにも気が付いた。以前、ちょっとした遊びで推理ゲームをしたことがある。正解率が数パーセントなどと呼ばれる問題で自分も弓納も解けなかった問題であったが、さやはそれを少し考えた後、「あっ」と言ってあっという間に解いてしまった。普段は朗らかでそんなことをおくびにも出さないが、実際の所彼女は内々で色々と考えているのだろう。
「これからどうするべきか考えないといけません。何となくですが、少しずつ良くない方向へ向かっているような気がします」
「そう、だね」
 真夜中に起きた事件。これは何者かがさやを狙っていたということだ。そういえば、弓司庁の日向という男がさやを探していると言った。では、これは弓司庁の仕業なのか。
「一体、さやが何だって言うんだろう」
「太さん?」
「ううん、何でもない。さて、僕も、自分の出来る範囲で何か考えてみないと」
「二人共、話は終わった?」
 二階から降りてきたさやは言った。彼女は食事が終わった後、二人で話があることを察してか「ちょっと部屋掃除しときたいから」と言って二階へ上がっていた。
「うん、大丈夫。もう終わった」
「そっか、じゃあそっちいくね。お話混ぜてー」
 さやは縁側まで来て弓納の隣に座った。西日に照らされた白銀の髪が煌めき、まるで舞台照明に照らされたかのように、一層彼女の美しさを際立たせた。

 しばらく三人で他愛のない会話をした。大学や高校で起きた珍妙な出来事や市内のとある公園で五つ葉のクローバーがあったことなど、特にとりとめもない会話の連続であったが、不思議と話題が尽きることはなく、あっという間に時間が過ぎていく。さやは相変わらず楽しそうであったし、そんなさやの様子を見て、太と弓納の二人は少しだけ安堵した。
 束の間の会話の間が出来た時、ふと、さやは縁側から外の庭へ出て空を見上げた。
「この時期は日が落ちるのが早いね」
 言われて二人は空を見上げると、空は夕暮れの景色を帯び始めていた。太は腕時計で時刻を確認したが、既に時間は四時過ぎを指している。
「ああ、もう四時だったのか」
「そんなに経ってたんですね」
 弓納もそんなに話していたとは思っていなかったようで、少し驚いているようであった。
「ねえ、二人共」
 さやは少しの間の後、ゆっくりと弓納と太の方を振り向いた。
「私、はじめや小梅、詠子さんや天野さん達と会えてよかったです」
「どうしたの? 突然」
「ううん、何でもない。ただ、言っておかないとー、って思っただけ」
 そう言った後、「やっぱり駄目だ」とさやは首を軽く振った。
「ごめんなさい。あのね、やっぱりもやもやするから聞いておこうと思います」
「え」
「私が今外に出れない理由。それって、神社をお留守番にするのが問題だからなんじゃなくて、私を守るためなんでしょう」
「……それは」
「うん、そうだよ」
「弓納さん?」
「太さん。もう嘘をついても仕方がないみたいです」
 確かに、さやは賢いからそれらしい嘘を並べ立てたところで穴を突かれてしまうだけだろう。大体、神社を留守に出来ないのであればさやが来る前は一体誰が留守番をしていたのかという話になってしまう。望月が何処まで考えてそう言ったのかは判然としないが、少なくともそれではさやを騙すことなどは出来ないであろう。
「あの時何となく分かったよ。小梅や詠子さんは普通じゃない何かを相手にしているんだなあって」
「あの時?」
「うん、昨日小梅が公園に行った私を連れ戻しに来てくれた時」
「あ」
「あの時ね、ぼんやりとだけど少しだけ意識があったんだ。夢かと思ったけど、小梅に抱きかかえてもらった時の感覚は覚えてる」
「そうだったんだ」
「ごめんね。皆に迷惑かけてばっかり」
「さやが気にすることなんかじゃないよ。これは、私達が決めたことだから」
「うん、ありがとう。ホントにありがとう。あのね、私時々思うことあるの。もしも、もしもだよ」
 そう言って、また束の間沈黙した後、白銀の少女はゆっくりと口を開いた。
「もしも私がここの子供だったらどんなに良かっただろうって。学校に通って、神社の手伝いをして、料理を作って」
「さや」
「私が何の変哲もない子だったら、そんなことも出来たのかな。友達と他愛のない話をしたり、何かに打ち込んだり、恋をしてみたり」
 そう言って、気恥ずかしくなったのか、さやは少し頬を染めながら笑った。
「何てね。そんな私の妄想でした」
 夕日に照らされた彼女は息を呑むほどに綺麗で、しかし、どこかに消えてしまいそうな、そんな儚さを感じさせた。