ロストミソロジー 十章:ムーンチャイルド

「なんてね。大人しくするとは言ったけど、屋敷から出ないとは言っていないわ」
 白夜見は屋敷の裏口を抜けて、街の中へと繰り出した。
 黄金色の灯る朱色の瓦葺きの建物に楽しげに聞こえてくる声々、街灯を照らす灯籠、ゴミ一つ落ちていない石畳を行き交う人々。白夜見は街中を小走りに駆けて、アーチ状に連なった橋を渡り、西洋館を思わせる建物の脇の通りへと曲がる。
 ふと彼女は空を見上げた。そこには僅かに欠けた月の模造品が変わらず浮いている。地上から見ると月は満ち欠けを繰り返しているというが、一体何故その現象までこの作り物に持たせてしまったのだろうか。
「いっつも満ちている方がいいじゃない。太陽の方は欠けないのに」
 そんなことを呟きながら、白夜見は階段を登って目的の場所へと至った。
 丘の上にあるそこは、花を散らしながらも決して枯れることのない見事な一本桜が一人そよそよと風に揺れていた。姫はその木の前にそっと腰を下ろし、その尽きることのない繁栄を体現したかのような木を見上げる。
 そこは白夜見の秘密の場所であった。一本桜であれば、この都にはこれよりも大きなものがいくつも存在する。しかしそれらはその雄大さ故に人を惹きつけ、いつ訪れても人がいないということはなかった。白夜見にとってもその桜は目が眩むほど見事なものには映ったが、反面自分で独占することが出来ないというもどかしさもあった。
 そんな時、彼女はこの場所を見つけた。以来、彼女は人のいない筈のここを自分だけのとっておきの場所として独占するつもりであった。
「どうせまたいるんでしょう。いい加減、姿を見せたらどうかしら」
 白夜見は誰も居ない筈の木に向かって話しかける。すると、木の向こうから微かに物音がした。
「別に姿を見せる必要はないだろう。何故なら、君に姿を見せなければならない理由が存在しないからね」
 木の向こうから低い男の声が聞こえてきた。
「本当に生意気な人ね。貴方は何でそんなにひねくれてしまったのかしら」
「君も大概さ。一体誰にそんな尊大な態度の取り方を教わったんだい?」
「ほら、ああ言ったらこう言う。もう、折角ここ独占してたのに」
「いいや何度も言うがそれは違う。ここを先に独占していたのは私の方だ。君が後から入ってきて、私がいるにも関わらず我が物顔でここの支配者を気取っていただけだ」
「へえ、そう。では私も何度も言わせてもらいますけど貴方、私が最初にここに来た時にここには居りませんでしたよね。それはどう説明するおつもり?」
「それは当然だとも。何せ私は君のように暇人ではないからね。時にはここに行きたくても行けない時などごまんとある」
 白夜見は木の奥を睨め付ける。
「本当に驚きよ。この桂京にこんないじけた人がいるだなんて」
「ああ、私がいじけているかどうかはさておき、そんな者もいるさ。君は世間知らずのお姫様だから知らないかもしれないが、桂京を歩き回ればそんなへそ曲がりの連中はいくらでも見つかる。今度機会があれば街中でも観察してみるといい、君の知らなかった街の一面が発見出来るだろう」
「ええ、そうさせてもらいます」
 それでも、ここまで捻くれた者などいないだろう。そう白夜見は思った。ならばそれをなんとか証明して、この男に「ほら、貴方みたいな拗けた男はいなかったわ」と突きつけてやろう。
「それで、今日も君はここに桜を見に来たのか」
「もちろんよ。ですから、そのひねくれ口はしまってくださいな。貴方だって不毛な口論はしたくはないでしょう」
「ああ、分かったよ。私とて人の花見を邪魔するほど無粋な男ではない」
 男が押し黙ると、白夜見は少し不満そうに眉根を寄せる。
「どうした? 折角花を愛でる邪魔が入らなくなったというのに、未だ不満そうに見える」
「ねえ。姿を見せろだなんて言わない。でも、ここで貴方と何度も会っているというのに私は貴方のことをほとんど何も知らないわ。だから、少しくらい貴方のことを教えてくれないかしら」
「ふむ。何故、君はそんなにも私のことを知りたがるのかな。私は何の変哲もない男だ。だから残念だが君の好奇心を満たすようなものを提供することが出来ない」
「別に特別な何かを求めているわけじゃないの。内容はどうあれ、こうして何度も言葉を交わしている人のことを知りたがるのは自然なことだと思うわ。それに、貴方は私のことを多少なりとも知っているみたいだし、そうなると私は貴方のことを知らないと釣り合わない」
「確かにそれはそうだな。だが勘弁してくれ。私はこの桂京のごく一般的な市民の一人だ。それ以上でも以下でもない」
「賢者」
「ん?」
「市井の人々が仰ってましたわ。何処かの木の下にどんな難題でも答えてくれる知恵者がいるって。それは貴方ではないかしら」
「さて、どうだろうか。そうした称号は受動的に得るものだからな。少なくとも、私はどんな難題でも答えられる自信がないことだけは確かだ。第一、私は知恵の神でもなんでもない」
「ふーん、そうなのね。でも火のないところに煙は立たないとも言いますから」
「何が何でも詮索する気か。頼む、代わりに君が好きな物語を一つ講釈してあげるから」
「そうねー」
 少女は思案を始め、やがてぽんと手を叩いた。
「ええ、それで手を打ちましょう。期待してますわ」
「はあ、やれやれ。では講釈して進ぜようか」