ロストミソロジー 十一章:真統記の中

「うう~、夜風が身に染みる」
 闇夜に包まれた三笠山の中腹地帯。薄紅色の着物を着た女が身を縮こまらせながら山道を歩いていく。
「うひひひ、今夜は面白かったな。まるで天がひっくり返ったようなあの表情、たまんないわね。やっぱち都会の方に来て正解だよ」
 そう言いながら、のっぺりとした肌色のみで彩られた顔はそこにない筈の唇を歪ませて笑った。
「皆口を揃えて今は誰も怖がらなくなった、なんて言うけど本当は逆さね。今という時こそ皆が怖がるんだよ。誰も私達の存在を肌で感じなくなった時分だからこそ、それが覆されたと時の表情ってのは凄みがある。この妙を分からぬとは、人生を損しているよ」
 そんなことを嘯きながら、その顔のない女は上機嫌にステップを踏みながら歩いていく。
 やがて、女は目的地である筈のその場所へとたどり着いた。
 さてと、皆に土産話でも聞かせてあげよう、そしていかに現代人が怖がりで臆病者でそのくせ何の備えもしていない阿呆者であるかを語って聞かせるのだ、そんなことを胸に秘めていた女は、しかし、この開けた平地に展開されたその光景を見てその場に立ち尽くした。
「何なの、これ」
 そこには、自分の自慢話を語って聞かせる筈の物の怪共はいなかった。そこにあったのは、彼らの食い散らかされた残骸。いくつかは雲散霧消しつつあるそれらの側にいたのは、異形である筈の自分から見て尚も異形であると感じさせる程の、黒々しく禍々しい存在であった。
 逃げなければならない、女はまるで人間のような直観で悟った。このままでは、自分も。
「たり、ぬ」
 かつて同胞だった者をくちゃくちゃと捕食していたそれは、徐に顔らしきものを動かす。そして、女を補足したかと思うと、そこについている仮面のようなものはニヤリ、と唇を歪ませた。
「ひい」
 女は尻もちをついた。それでもここから逃れようとそのまま後ろへと後ずさっていく。
 何だってこんなものがいるのか。これではまるで自分が驚かされている人間だ。
 いや、驚かすだとか怖がらせるだとか、そんな生易しいものではないのだろう。
「たりぬ、のだ。やつら、のけて、あれを取り込むには」
「いや、いや」
 何を言っているのか理解出来ない。しかし、ひたひたと黒い四肢を使ってゆっくりとこちらに進んでくる者がこれから何をしようと近づいてきているのかは全身で理解出来た。
「お願い、許して」
 女は後ずさっていくが、不意に姿勢を崩して、背中から転がり落ちてしまった。
 女は我に返った。このままではいけない。女はさっきまですくみ上っていた足で立ち上がり、柄にもなく己を鼓舞して山道を駆けた。誰かに知らせねば。一体誰に? 別の集まりにか。いや、それではここと同じ舞になってしまう。それは避けねばならない。
 鬼だ。山を下りた街の一角にとても恐ろしい力を持った鬼が住んでいると聞いたことがある。面識などないが、とても慈悲深く思いやりがあるらしいから、少なくとも門前払いにされることはないだろう。とにかく、そこへ行くしかない。
 ふと、道の真ん中で誰かがしくしくと泣いていた。薄っすらと見える着物とこれだけ暗い夜道から見える明るい薄桃色の着物からして、少女であろう。女はそのまま駆け下りたい気分だったが、見捨てることも出来ずに、それに駆け寄る。
「あんた、訳は後で話すからすぐにここから逃げな」
 ひょっとすると迷子になってしまった人間かもしれないと思いつつも、もはやそんなことに頓着していられるだけの余裕はその女にはなかった。女はその泣いて俯いている少女を必死に抱き起そうとするが、びくりともしない。
 奇妙に思った女はふと、少女が何かぶつぶつと言っていることに気付いた。
「何、なんだい」
「何が、あったの」
「化け物さ。お面した禍々しい化け物が追ってきてるんだ」
 後ろを振り返り特に追ってくる気配がないことに少し安堵しつつ女は律儀に答える。
「ねえ、そのお面って」
「え、何」
 こんな感じのやり取りには何か既視感がある、これは確か。
「こおんなお面じゃなかった」
 女は思い出した。それは自分の十八番だ。余りにも古典的過ぎて最近は手法を凝らしたり、別の方法を取るようになっていたが、それは確かに自分の得意芸であった。
 そして女は後悔した。何故自分は疑いもせずに近づいてしまったのか。
 しかし、そうと気付いたところでもう全てが手遅れであった。
 その仮面は形を変え、女の喉元に食らいついた。
 全く、自分が恐怖して逃げ回る側になるなんて思いもしなかったな。そんなことを思いながら、女は闇に沈んでいった。