ロストミソロジー 十二章:異界化

 神社からポートタワー周辺までは五キロメートルも離れていない程度の距離ではあったが、運悪く信号に何回か捕まってしまったため、到着に少し時間を要してしまった。
「さて、流石にもう少し人がいるもんかと思ったが、思ったより少ないな」
 ホテル近くの駐車場に車を停めながら、天野は辺りを見回しながら怪訝そうに言った。
「わざわざ駐車場に車を停めてまで見る必要はないということなんでしょうか」
「そうかもな。確かにあれは目を引くが、この時間帯にわざわざ停めてまで見ようって気にはならんのかも。最初からそれ目的で来てるってやつなら別だが」
「それか、神社にかけたような結界に近いものがかかってるのかもしません。あるいは、ですが」
「それはまた無茶苦茶だな。見てくださいとでも言わんばかりのド派手なパフォーマンスかましてんのに、気付かれたくないってのかよ」
「何はともあれ当人に聞くのが一番ですね」
「それもそうだ。さ、行くぞ」
 天野と弓納は道路を渡ってホテルの中へと入っていく。
「……おい」
「はい。何か様子がおかしいですね」
「ああ、有りえん。"どうして人っ子一人いねえんだ"」
 ホテルのフロントロビーの入り口付近で二人は立ち尽くしたまま、電気がついたままのその無人の空間を見回した。
「あまりに馬鹿馬鹿しくて夢じゃないかと疑ってきたぜ。自覚してないがやっぱり俺最近疲れてるんじゃないか」
「では、思い切りつねってあげましょうか? これが天野さんの夢ならそれで醒めると思います」
「お前が冗談とは珍しいな」
「そうですか」
「そうだよ。ってそんな無駄話してるわけにはいかんな。さっきから嫌な予感がプンプンするぜ」
「そうですね。何か呪術的なものを使っているのでしょうが、こんな大規模な神隠しは初めてです。こういう時、詠子さんがいたらよかったんでしょうけど」
「いないもんは仕方ない。さて、どうしたもんかな」
「勘解由小路さん達は何処に行ってしまったのでしょう」
「さてな。多分、この異常事態を引き起こした張本人を追っているのかもしれん。少なくともここにいないのだけは確かだ」
「上の方、行ってみますか。人がいるかもしれません」
「そうだな。望み薄だが万が一ってこともあるかもしれん」
 天野はロビーを見回しながら「あー、弓納」と気だるそうに言った。
「何ですか?」
「手分けして探そう。弓納、外か中、どっちがいい」
「外、ですか?」
「ああ。ホテル周辺にこの神隠しをやった奴がいるかもしれないからだ。中を二人で闇雲に探すよりも、いいと思うが、どうだ」
「じゃあ外行きます。天野さん、フミツカミがあるから中の探索はしやすいですよね」
 弓納はそう言って笑みをこぼす。
「ああ、助かる。実際、中の方が俺はやりやすい」
「決まりですね。それじゃあ、何かあったら携帯に、ってああ、これ繋がりませんね」
 弓納はポケットに入れていた自分の携帯を取り出したが、その画面は当たり前のように圏外だと告げていた。
「こっちもだ。まあ案の定だな」
「どうします」
「じゃあこれでどうだ」
 天野が親指をピンと横に立てる。親指から黒い字のようなものがうねりながら出てきた。それは、弓納の周りをぐるぐると飛び回る。
「追跡兼連絡用のフミツカミ。これで俺は少なくともお前の居場所は分かるから、何か分かったらそっちに行く。逆になんかあればそいつを使って連絡してくれ」
「便利ですね。それに可愛い」
 ぐるぐると周るその生き物のようなものを見ながら弓納は言った。
「つっても、携帯使うようになってからめっきり使わなくなったがな」
「じゃあ行ってきます」
 弓納はそう言うと踵を返してホテルの外に出ていった。天野は弓納が出ていくのを見送りながらふう、と軽くため息をつくと、吹き抜けになっている二階部分の渡り廊下を見上げた。
「おーい、待たせて悪かったな。そろそろ出てきたらどうだ」
 天野が大きな声で語りかけると、スッと柱の影から人が姿を表した。その金髪の背の高い女は柔和な笑みを天野に投げかける。
「あら、どうしようか考えていたのに、自分から一人になってくれるなんて物好きな人ね」
「別に、一人の方がやりやすいな、って思っただけさ」
「後学までに聞いてみますけど、私がいることにどうやって気付いたのかしら。気配は完璧に遮断していた筈なのだけど」
「それはあんた、この辺りにコイツを張り巡らせていたからだ」
 そう言って天野は人差し指を立てる。そこから、文字のような黒い紋様が生き物のようにうねりながら人差し指から飛び出て宙に浮かび上がった。
「人がいないからな。もしコイツで触れたものに肉の感触があれば、それはこの神隠しの仕立て人ないし協力者だということだ」
 あんまり遠くまで行けないけどな、と天野は付け加える。
 女は無邪気な笑みを浮かべてそれに魅入った。
「わお。なあにそれ、凄い」
「さあな、教えてやんねえよ」
「もう、ケチな男ねえ」
「教えるメリットがないからな、バルバラ」
 その名を天野が口にした瞬間、女の笑みが不敵なものへと変わった。
「……ふーん、私の名前知ってるってことは貴方、いよいよあの吸血鬼さん達と足並み揃えてきたってことね」
「なに、吸血鬼? 何のことだ」
「いいえ、何でもないわ。どちらにせよ私のやることは変わらない」
 バルバラは持っていたコントラバスのケースについている赤い紐を引く。すると、そのケースはグニャリとまるで粘土のように変形を始め、やがてライフル銃へとその形状を変えてしまった。
 銃口を天野の方に向ける。天野はほお、と感心する。
「貴方が一人になってくれて本当に助かったわ。二人は流石に難しいけれど、一人ずつならなんとでも出来る」
「ああそうかい。しかしな、姐ちゃん。ここは大人しく引き上げてくれねえかな。大体あんたはこの国の人間でもないのに、本居とかいう奴に協力する理由はなんだ。金、か?」
 両手を挙げながら天野は言った。しかし、バルバラは銃を構えたまま小さく首を振る。
「いいえ、貴方は勘違いしている。関係ないなんてことはないのよ。だって私のご先祖様は元を辿ればこの国に行き着くもの」
「何だって? そんな馬鹿なだってあんたは」
「白人だ、って? でも、事実なんだからしょうがないわ。私は遠い昔に大陸に渡った一族の末裔。貴方は知らないかもしれないけど、昔はこういう白人っぽいのもこの国にはいたのよ。時には本物の鬼と間違えられてしまったこともあったようだけどね」
「成程ね。にわかに信じがたいが、この国で生きるには窮屈だったとか、そんなところか。ところで、もうちょっと質問いいか」
「何かしら」
「まだ解せないな。あんたのルーツを辿っていくとこの国にたどり着くというのは分かったが、だとしてももう何千年前も前の話だろ。常識的な考えで言うとだな、それはもう殆ど他人事だ。俺の見立てじゃあんたはそんなことに拘るような女には見えないんだが、どうかね」
「そうね。本音を言ってしまうと、私個人としては今回の件はあまり興味なんてないのよ。だから必要なことをやったらこの件からは手を引くつもり」
「必要なこととは?」
「残念だけど言えないわ。でももうちょっとで終わる、とだけ」
「ほーお、そうか。まいいや。別に知ったところで何か得するわけでもなさそうだし。ああ、ついでにこれは他愛のない質問だが、日本はどうだい?」
 その唐突な質問に、バルバラは眉をひそめる。
「どういうこと? 質問の意図が分からないわ」
「意図も何も、単純に感想を聞きたいんだ。日本に来た感想だよ」
「そうね。何を企んでるか知らないけど、一応答えてあげるわ。私はこの国は好きよ。これまで何回か来たことはあったけど街は綺麗だし、和の建築は美しく、何より、懐かしい感じがするわ。これで満足?」
「ああ、満足だ。俺も日本人として鼻が高い」
 天野は口元に笑みを浮かべた。バルバラはその微妙な表情の変化に眉をひそめる。天野から目を離さずに周囲の様子をそれとなく探ってみるが、特段何か変わった様子は感じられない。
「何? 気味が悪いわね」
「そう言うなよ。物事が上手くいった時ってのは思わずにやけてしまうもんだろ?」
「何を言っているの」
 奇妙なことを言う天野にバルバラは一層警戒を強める。まさかこんな時に過去の成功体験でも思い出して悦にでも浸っているのだろうか。
「なあ姉ちゃん。植物が成長していくのをリアルタイムで観察したことってあるか?」
「はあ? そんなものあるわけないわよ」
 益々意味の分からない質問にバルバラは一瞬困惑した。この男は自分を油断させるつもりであえて意味のない質問をしているのだろうか? だとしたら、無意味だ、自分はそんなことで油断したり判断を誤ったりすることはない。
「そりゃそうだよな。ビデオで撮って早送りで再生するならともかく、植物が成長していく様をリアルタイムで見るなんて暇なことをする人間はいない。人間が見るのはいつも成長したっていう結果だけだ」
「つまり何が言いたいのかしら」
「そうだな。それを知りたいなら、自分の手元辺りをよーく見てみるといい」
「手元?」
 バルバラはそっと視線を下に移した。それを見て、彼女は動揺した。
 バルバラの手には黒々とした紋様が葉脈状に纏わり付いていた。銃を握った手を動かそうとするが、まるで金縛りにでもあったかのようにピクリともしない。
「な、何なのこれ!」
 ゆっくりと自分の体を這い上がっていくそれに憤りながら、バルバラは視線を天野の方に戻す。
「勝負あったな。ほれ、どこかの兵法家の言葉にあっただろう。戦う前に勝つ、みたいなこと。俺はギャンブルとかが苦手なたちなんでな、なるべく勝つか負けるか分からない戦いは避けたいんだよ」
 天野は勝ち誇ったかのような得意げな表情になった。
 バルバラは唇を噛み締める。さっきからダラダラと質問を続けていたのは、これを自分に気付かせないための時間稼ぎだったのか。人間というのは、微妙な変化や刺激には気付きづらい。人間は少しずつ髪が伸びているという変化に気付かないように、この黒い入れ墨のようなものは極端に少ない刺激で徐々に自分の体に纏わり付いてきたのだ。
「というわけで、降参ということでいいかな。ここで降参してこの異常事態を元に戻してくれるなら、あんたには何もしない」
「く、ふふ」
「どうした、思い出し笑いか」
「いいえ。生憎だけど、直近で思い出して笑ってしまうほどの出来事はなかったわ。貴方はいくつか勘違いをしている」
「ほお、そりゃまた説明願えるかな」
「ええ、ですが時間がないから簡潔に。まず、この一帯に人がいないのは私の仕業ではないわよ。だから私にはこれをどうすることも出来ない。それともう一つ」
 バルバラの持っていた銃がぶよぶよとまるでスライムのように形を変える。それは色を変えながら、あっという間にスタンガンのような形へと姿を変えてしまった。
「貴方はまだ勝ってなんかいない」
「なっ」
「やれっ!」
 バルバラが言うと、そのスタンガンはぐにゃりとその胴体部分を拗じらせながら、その凹んだ部分をバルバラの手に当てようとした。
「ちっ」
 バルバラの体から紋様が一気に引いていく。体が自由になったバルバラは即座に形を銃に変えてしまったそれを掴み天野目掛けて引き金を引いた。天野は既に駆け出していて、その銃弾を躱し、柱の影に隠れてしまった。
「あ~あ残念。相手が勝利を確信した時こそチャンスだ、みたいなことを何処かの兵法家も言ってた気がするのに」
「おい、何なんだそいつは」
「見ての通り銃じゃないわ。キールって言ってね、さっき見せたような物真似が得意な子なのよ」
「ふん、なるほどね」
「さて、いい加減そこから出てきたらどうかしら。このままじゃ膠着状態でお互い困るでしょ?」
 しかし、その問いに返答はなかった。天野から返答がないことを悟ったバルバラは構わずそのまま引き金を引こうとした。
 甘いわよ、バルバラの口元がにやつく。通常の銃弾を放った所で、物陰に隠れた人物に当てることは出来ない。無論、跳弾などという現象をバルバラは期待しているわけでもない。
 しかし、この銃は銃ではない。あくまでキールが真似たものなのだ。オブスキュリアという種族であるこの魔物は個体毎に得手不得手があり、特にキールはこうした銃器類になることが得意としているが、結局のところ、その銃は魔物であり、その放たれた弾も魔物の体の一部である。銃弾のように飛んでいるのは、魔物の意思で銃弾のように振る舞いながら飛ばしているに過ぎない。
 つまり、自分がそう望めば直線的に動く筈の弾丸はいともたやすくその軌道を横へずらすものへこと変えることが出来る。
「じゃあね」
 そう言って引き金を引こうとした時だった。バルバラは足元がぐらつくのを感じた。思わず足元に目を向けると、平坦だった筈の吹き抜け通路には不規則な亀裂が生じ、あっという間にその形を崩していった。
 バルバラはよろけながらも前方へと飛び上がる。
「キール!」
 彼女が叫ぶと、手に持っていた銃の一部が変形して彼女の着地地点にクッションを作った。バルバラはそのままそのクッションへと着地する。
 銃から伸びたクッションをしまいながら、銃口をその崩れ去ってしまった二階通路の支柱の残骸に向ける。パラパラとコンクリートの塵が舞っている中、バルバラは通路を破壊した男の行方を探す。
「そう、あくまで身を隠すというわけね。でも、そこからさっさと出た方がいいわよ。でないと」
 銃弾が放たれる音がした。バン、という軽い音とは裏腹にそれはホテルのもはや用をなしていない支柱の残骸を粉々に粉砕してしまった。
「こうなっちゃうわよ」
 鎖が擦れ合うような金属音がした。バルバラは上を見上げる。
「下だよ」
 左足に冷たくて固いものが巻き付くのをバルバラは感じ取った。それに足を取られそうになるのをその場に踏み止まろうと踏ん張る。下に銃口を向け、引き金を引いた。鎖は砕け散り、黒い紋様となって宙に散っていく。銃を不自然な体勢で撃った拍子に彼女は身をよろけさせてしまい、体勢を整えようとしてふと前方を見た。
「銃より早いぜ」
 そこには、天野が弓を構えて今にも矢を放とうとしていた。
「どうかしら」
 体勢が整わないのも構わず、彼女は銃口を前方に向ける。
 空気を裂く音と、空気を破裂させる音がフロントロビー内に響いた。