ロストミソロジー 十三章:古き堕神

 かつて、とある国に多くの人間から信仰を集める神がいた。
 その神は満ち足りており、彼を崇める者達もまたその祝福により、栄華を築いていた。
 毎日のように石造りの神殿で彼を崇め奉る人々。遥か遠方においてさえ、その信仰を失わず彼へ送られる清廉な祈り。それらには自らの神通力を以て応えた。一度戦となれば暴風の力を以て天候を操り、自らを讃える者達を助けたし、日照りには雨をもたらして彼らを潤した。
 超越者にありがちな傲慢な態度などその神には微塵もなかった。生贄を要求することはしなかったし、時には見返りを求めぬ恵みをもたらしたりもした。そのような謙虚な神をいつまでも人々は信仰するだろう。その神は人々に見捨てられ落ちぶれていく神々、消えていく神話体系を尻目に我が世の春を謳歌し続けていた。
 その終わりは、まるで打ち棄てられた建物が朽ちていくように緩やかに進行していった。
 キッカケはその神の崇められていた地域にやってきた異教徒であった。これまで聞いたこともない新しい教えを携えてきた彼らに、人々は少しずつ感化され始めた。
 神ははじめ異教徒に寛容であった。それは、自らの偉大さ、寛容さを彼らに知らしめる目的でもあったが、結果としてそれは、自らの偉大さを知らしめるのではなく、却って自分を崇めていた人々の離反を招いてしまった。
 その神は初めて焦燥というものに駆られた。彼はその状況を打破するために異教徒を追い出し、自らを信仰するように人々に神託を与えた。しかし、既に感化された人々にとって、その神は最早自分達を守護してくれる神ではなく、人を惑わす悪魔であった。
 その神は次第に疎んじられるようになり、遂に人々からの信仰を失ってしまった。その神殿は打ち壊され、彼を信仰する者は迫害を受けるようになった。その場所では、最早彼を信仰する者こそが異教徒であった。
 神は少数の信徒と共にその地を去り、新たに自らを畏れ受け入れてくれる新天地を探し始めた。東方へと流れていった彼は、最初の内はそこで多少の信仰を獲得することが出来たが、それも長くは続かず、やがて彼を信仰する者達はいなくなってしまった。
 そうして神は落ちぶれた。もはや顕現した姿にかつてのような威容などまるでない。
 その姿は、実に醜悪で、時に人に石を投げつけられる程に歪んでいた。
 それはまるで、かつて信徒であった者達が考えていた悪魔そのものであった。
 理不尽だ。
 何故自分がこんな仕打ちを受けねばならなかったのか。
 つまる所、自分は銀でしかなかったのか。自分に縋るしかなかった人間共。奴らは、より価値のある金を目の前にぶら下げられてあっさりと自分を見限ったのではないか。
 これまでさんざん当てにした挙句の果てにこの仕打。なんて浅ましい生き物達。霊長とは名ばかりの半端な知性しか持ち合わせていないケダモノめ。だが、最早そんなことはどうでもいい。今手に届く所に、かつての威容を取り戻すための器が存在するのだ。いや、かつての威容どころではない。上手くいけば、取るに足らない者共をあてにすることもない、自立した神となれるやもしれぬ。
 そう思うと、内心ほくそ笑んでしまう。そうした時の自分は外から見ると一体どんな様相なのだろうか。ふとそんなことが頭に浮かんだ。嫌悪の眼差しを向けられるその姿は、一層醜悪で戦慄を誘うものになってしまっているのだろうか。
 まあよい。
 今するべきことはただ一つである。どんな手を使ってでも、あれを手にしなければならない。そうすれば。
「成程。本体は異変の場所から遠く離れた所で観戦というわけか。実に用心深いことだ」
 これはどこかの遊具広場で自分の邪魔をした男の声。
 忌々しい。どれだけ手を尽くそうと、運命というものは偏執狂のように自分の妨害をしてくる。神というのは運命に翻弄される側ではない、むしろそれを支配する側であらねばならないのに。
「随分と派手にやってくれたようだな。貴様から漏れ出る悪臭がいささか鼻につく」
 静かな風の吹く山間にぽっかりと開けた小さな平野。秋月はそう静かに語りかけた。
「何のことだ」
「ふん、口が利けたのか。まあそんなことはいい。貴様、この辺りにいた化生の徒を喰っただろう。あれらは人を驚かせることが生き甲斐の殆ど無害な輩だったのだがな」
「お前は西方からの流れ者だな。私と同じ匂いがする。同じ、根無し草になった者の匂いだ」
「心外だ。貴様と一緒にするな」
「どうかな。大方、何処かの領主だったのを、悪魔などと罵られて追い出された口だろう。ふふ、人間達はケダモノで、常に自己にとってより都合がいいものは何か、ことそれに関しては驚く程の計算が働く。さしずめ、お前は銀貨だったということだ。金貨と比べられ、そして捨てられた」
 そこで男、秋月は眉根を寄せる。その様子を見て、ファントムは仮面とも覚束ないその口元をまるで般若の如く歪ませる。
「どうだ。私に協力してはみないか。何、協力といっても特に何かをしろということはない。只、事態を静観するだけでいいのだ。私が、あの娘の器を手に入れたなら、お前にもその分前をくれてやる」
 秋月は静かに、手に持っていた刀を抜き始めた。澄んだ刀身は光を反射して一層その輝きを強くする。
 その切っ先をその黒々とした人影へと向けた。
「答えは見ての通りだ」
「そうか。少しは期待していたが、やはり予想通りの反応が帰ってきたな。後で、後悔するなよ」
 そう言いつつ、ファントムは内心喜んでいた。こいつを喰ってしまえば、目的の達成がより確実なものになる。こいつは何も語らないが、遥か西方、欧州あたりの土着の神ないし魔人の類だろう。それはかつての自分には及ばない存在だが、しかし今となっては大きな糧だ。眼下の港にいる小物諸共に取り込んでしまえば、今のあの小生意気で真白な小娘とも対等になれる。
 ふと、すぐ横に鋭い脅威を感じた。自らを損傷させようとしているその刃を、ファントムは咄嗟に身を屈めて躱した。しかし、その凶刃はすぐに軌道を変えてその屈めた体に斬りかかる。
 だが、その刀はその身を襲うことはなかった。刀はその身から新たに伸びた歪な長い手によって掴まれていたからである。ファントムは、苦痛を感じているのか、その仮面のようなものに苦悶の表情を浮かべている。
 秋月は柄に力を込めてその手を振りほどこうとする。しかし、いくら力を込めてもそれは微動だにしない。
「ちっ」
 秋月は、その人影からもう一本の腕が伸びているのを視界に捉えた。すかさず柄を手放し、秋月を掴もうとするその魔手から逃れるために後ろへと跳躍した。
「くく、得物がなくなってしまったな。どうする? 降参するならまだ許してやっても構わないが」
 ファントムはその刀を興味深そうに観察しながら言う。しかし、秋月は焦る様子を一つも見せずに澄ました顔でその人影を見据えた。
「その刀を返してもらおうか。大事な物なんだ」
 秋月の手首から血飛沫が上がる。舞い上がった血はしかし、地面に落ちることなく糸のようになって互いに絡み合っていく。そしてそれは、瞬く間に鮮やかな朱い槍へと形を成していった。
「ふん、チスイコウモリらしい得物だ。なのに何故今手にしている槍ではなく、頑なにこの剣に拘る」
 秋月の手首を見ながらファントムは言った。手首は何事もなかったかのように、その傷の痕跡すら存在しなかった。
「それはお前には関係のないことだ」
 秋月は手に持っていた槍を地面に向かって突いた。すると、地面はまるで水面に波紋が広がるようにゆらゆらと揺れ始めた。
 咄嗟にファントムは地面を蹴る。飛び去ろうとする刹那、それのいた地面から朱い槍が突き出して来た。
 槍はファントムの脇腹と思しき場所を掠れた。その仮面の表情が一瞬だけ歪むが、すぐにいつものように無表情へと戻る。そして、着地点へと足を着けようとした。
「うごっ!」
 足を地に着けることなくその人影はごろごろと転がった。本来、それが着地するつもりだった場所には地面から槍が突き出ていたからである。そしてその人影は突然起き上がったと思うと、秋月から大きく距離を取った。
「おのれ……」
 ファントムはそれで理解した。秋月の持っているあの槍は固形の物ではない。不定形なのだと。あれはおそらく、秋月の魔力によって編まれた槍。擬器などと呼ばれるそうした擬似的な物体というものは、自分に馴染んだ物以外を生成するのは困難なことであり、まして瞬時にその形状を変えるというのは現実的な所業ではない。
 だが、秋月は吸血鬼であった。その槍は、他の使い手があくまで"道具"として擬器を生成するのに対し、彼は"自分の体の一部"としてあれを生成しているのだろう。吸血鬼というものは概して蝙蝠や霧などに形を変えられるものだが、つまるところ、秋月はその要領で自分の体の一部を変化させて槍としているのだ。
 成り行きを見守るかのように風に揺られた木々が静かに騒ぐ。しかしファントムは秋月を見つめたまま、動く気配を見せない。
「そのまま様子見か。あるいは、夜明けまで待つ算段か」
「……」
「だがそれは意味がない。陽の光を私が苦手とすることはないし、十字架を見せられても背徳を感じて呻きを上げることはない」
「戯言を」
「ならば試してみるがいい」
「ちっ」
 ファントムは跳躍して木に飛び移る。
「夜明けまで待つだと? 馬鹿馬鹿しい。貴様は今ここで倒れるのだ」
 その背中から伸びる二つの異形の手が奇妙な印を組んでいた。それはまるで心臓に短剣でも突き入れているかのような形である。
 秋月はカッと目を見開く。すると、深い朱で彩られたその槍は真紅の光を放ち、辺りを鮮やかな血の世界に染め上げた。
「これ以上コソコソと動き回られても困るのでな、引導を渡してやる」
 ダインスレイフ。北欧に伝わる魔剣の名を借りたそれは、彼にとっての奥の手の一つである。こうした目に見えて派手な一手は彼の好む所ではなかったが、この手を選んだのは、早くに勝負を決めてしまいたかったからである。
 秋月は自分に対する確固たる自信を持ちながらも、漠然とした不安を感じていた。この堕神は何かを企んでいる。おかしな印を組んでいるのはその証拠だ。多少魔力を蓄えた所で力を失った神の奇跡など恐るるに足らない筈だが、ひょっとして自分はやられるんじゃないか、そんな不安が先程からしつこく頭にまとわり付いてくる。
 これで終わりだ。秋月はそれを投擲しようとする。これを終えたら、港の方に趣き、勘解由小路かあるいは日向を手伝いにいこう。
 にい、とその堕神は"顔"を道化師の如く歪ませた。一体何がそんなにおかしいのか。このダインスレイフは一度投げたら最後、標的の魔力を吸い上げるまで相手への追跡を止めない文字通り魔の槍だ。それは神であっても例外ではない。
 積年の穢れで遂に気でも触れてしまったのか。秋月はそんなことを考えた。だが、それが間違いであったことをすぐに思い知らされた。
 視界が歪んだ。一瞬、何が起きたのか分からなかった。ふと、下の方を見やる。
 何かが自分に刺さっていた。それが何かまでは分からない。何故なら、秋月の前には何もなかったからだ。
 ただ、体の中に確実に異物感があることだけは感じ取った。そこには何もないが、確実に何かが自分に刺さっていた。
 秋月は槍を落とし、ガクリと膝をついた。上を見上げると、仮面が卑しい笑みを浮かべていた。
「まやかしか」
「さて、何のことかな」
 秋月は何をされたのかを悟った。これは認識阻害だ。詰まるところが幻覚。だが、誰か特定に人物に対してではない。世界に働きかける幻覚とでも言えばよかろうか、それは、世界にないと思わせているのだから術者を除いて決して誰にも知覚されることはないのだ。
 体の異物感だけが知覚できるのは、その異物だけは刺す直前に幻覚を解除されたからだろう。世界にないと認識させているものは当然ながら現実世界に干渉出来ない。だから、秋月に直接危害を加えるものだけはその直前に幻覚を解除したのだ。
「ぐっ」
 秋月は立ち上がろうとするが、体が一向に言うことを聞かなかった。非常に緩慢な動作をすることが精一杯だ、まるで金縛りにでもあったかのようである。なんとか蝙蝠にでも化けようかと試みたが、何か別の力が働いているのか、体を変化させることが出来ない。
「くく。弱き神は人間どもの影響を受けやすい。望んだわけではないが、私は悪魔、邪神などと呼ばれて"不可知"の性質を付与されてきたのだ。だが、それが図らずも私を助けてくれたようだな」
「成程。お前達に力を授けるのは何もポジティブな信仰だけとは限らない、ということか」
「そういうことだ。さて、無駄話もここまでだ。お前を取り込めば、あの寝ぼけた小娘程度何とでもなろう」
 ファントムの仮面が十字に割れ、まるで蜜柑の皮でも剥くかのようにその仮面は剥ぎ取られていく。そうして露わになったその表面は空洞、大きな口であった。頭部は次第に膨張していき、間もなく人一人を容易に飲み込める程にまでなっていった。
「内から行く末を見ていればいい。なに、飽きる心配などする必要はない。手始めにこれからそれを証明していこう」
 ファントムは秋月へと襲いかかる。秋月は、ただわずかに口を歪ませたがやがて諦めたかのように静かに目を閉じた。
 音もなかった。それは秋月に覆いかぶさり、そして呑んでしまった。
「もう少しで、ようやく戻れる。待っていろよ。ああその前に」
 捕食を終えて元の姿に戻ったファントムは、静かに空を見上げる。
「港にいる二人を腹の足しにしておくか」
 ふと、思い出したようにファントムはポツリと呟いた。