ロストミソロジー 十四章:さや

 港の広場南西に突き出た一角は黒い半円状の霧に包まれていた。その内部に今、日向はいる。
 内部は最早それ以前の空間とは似ても似つかぬものに変容してしまっていた。そもそも、そこは霧の中では考えられない程の空間の広がりを持っており、それは如何にここが異界染みているかの証左でもあった。
 これは何処かの山であろうか。日向は辺りを見回す。地面一杯に青白い輝きを放つ花が咲き乱れており、それが二百メートル四方に広がっている。
「これは」
 日向は地面に広がっているものの正体に気付いた。これは本物の花ではない。おそらく、魔力によって編まれた花の模造品。
 害意がないことを感じ取ると、日向は地面にしゃがんでまじまじとその花を観察する。
 とても精緻な作りをしている。意識しなければ、本物だと錯覚してしまいそうだ。日向は思わずこれを作り出した者へ敬意の念を抱いた。無骨である自分にはとても出来ない芸当である。
 さて、と日向は立ち上がりこの花園の中心部分を見上げる。
 そこには、外から観察されたあの幾何学文様の花が浮かんでいた。そして、そこへ至るための虚ろな足場が形成されている。
 まるで、出雲にかつてあったという大社の階段だ、日向はそう思いながらも、おそらく彼女がいるであろう"祭壇"へと足を向けた。
 わざわざ足場を築くというのは、罠であろうか。古典的だが、登っている途中で足場を消して落としてしまうなどということも考えられる。だが、足場を消した所で意味がない。天狗や魔女には及ぶべくもないが、一瞬だけ空中に足場を作って駆けるくらいであれば、自分であっても可能である。あまり遠くまではいけないが、あの場所まで至るくらいなら十分だろう。
 だが、それにしてもやはり足場を消す必要などないのだろう。
 そこには、狼が座していた。
 体高はおよそ百八十センチメートル程度といったところか。巨大、とは言い切れないが、十分に異常な大きさである。
「美しい」
 思わず、日向はそう漏らした。
 その毛は月の明かりを反射して蒼く輝いていた。その眼は煌々と輝き、一度目を合わせたものを囚えて離さない魔力があった。そのしなやかな肢体、ピンとした背筋はこの狼が如何に高貴な存在であるかを物語っている。
 まるで、この場所がこの魔性の狼のために存在しているかのようであった。
「神獣、か」
 魔獣と呼ぶにはあまりにも神々しい。恐らく、かむひの神話体系にいた存在なのであろうと日向は推測した。さやの神使なのであろうか、記録のない今となってはそれも分からない。
 只、この狼が階段を守る門番であること以外は明白であった。
 日向が階段に向かって歩を進めていきつつ、手にしていた刀を抜こうとした。
「っ!」
 日向は刀を見ると、鍔の部分が凍りついていた。
 日向は瞬時後退する。
「成程、大気を凍り付かせているのか」
 実に狼らしい、と日向は思った。
 日向が再び刀を見ると、刀の凍りついていた部分は溶けていった。
 狼は依然そこに座している。動く必要などないとでも言うかのように。
 日向は改めてその場で刀を抜いて後ろに引く。次の瞬間に、刀は眩い金色の光に包まれる。
「遠慮はしない」
 日向が言うと。狼はゆっくりと立ち上がり、そして、吠えた。
 日向の周りを無数の細氷が舞う。そして、狼のいる場所から日向のいる場所に向かって一直線につららが突き出してきた。
 細氷は刃。触れれば一瞬で切り刻まれてしまうだろう、そう日向は判断した。つまり、逃げ場を塞いで確実に屠るということだ。日向は唇を引き締める。
「元より避けるつもりなどない」
 日向は光を纏った刀を振るう。その眩い光が拡散し、辺りは一瞬の内に光に包まれる。
 狼は唸り、全身を振るわせる。自分を襲おうとする光の奔流、それが持つエネルギーをゼロにするために。本来、この氷狼にとってそれは造作もないことであった。
 だが。
 そこに意識を集中しすぎてしまったことが、仇となった。
 光の中から放たれた一閃。それは、この見目麗しい狼を斬り伏せるに余りある一手となった。
 日向はよく響き渡る遠吠えを上げながらゆっくりと崩れ落ちる狼を一瞥し、刀を収めた。
「さらばだ」
 狼の体は蛍の光のようなものを放ちながら次第に透けていき、やがて完全に消えてしまった。
 日向は氷狼の消滅を完全に確認すると、再び足場に向かって歩き出そうとした。
「やはり貴方は凄い方ですね。あれだけ格の高い霊獣を一瞬で仕留めるなんて」
 少年の声が聞こえた。日向には、その声に聞き覚えがあった。そう、それはあの神社にいた少年、いや、青年の声だ。
「この先にさやがいるんですね」
 日向が徐に振り向く。
「何故君が」
 日向は目を見張る。その声は幻聴でも何でもなく、間違いなく太一のものであり、そこにいたのは、やはり太一であったからである。

「僕だって客士の一人です。これでは答えになりませんか」
 太はその素朴な疑問にただそう答えた。
「ここには結界が張られていた筈。一体どうやってここに来たんだい」
「無理やりこじ開けました」
「そんな馬鹿な」
 ここに張られていたものは、少し呪術を齧った程度の人間が破れるものではない。いや、それどころか、熟練した者であっても容易に破ることは敵わない代物の筈だ。
 なのに何故、この青年はそれを容易に破ってしまっているのか。
「さやを止めに行きます」
 そう言って太は日向の前を通ろうとする。しかし、日向はそれを遮る。
「駄目だ。君が一体どうやってここまで来れたかは分からないが、これ以上先へは行かせられない」
「何故でしょうか?」
「決まっているだろう。危険だからだ。君の知っているさやが、一体どういう女の子だったのかは分からない。その子は優しくて、誰かを傷つけるような子ではなかったのかもしれない。だが、その子はもうこの世界の何処にも存在しないんだ。今この階段を渡った先にいるのは、可憐な少女の感性など持ち合わせない女神と、それに付き従う男だけだ」
「いいえ、そんなことはありません。さやはさやです。それは例え記憶が戻っても変わらない」
「仮にそうだとしても、危険であることには変わらない。君も今まで見てきたかもしれないが、神というのは気まぐれだ。自分の気分一つで人間の運命を翻弄することもよくある。君はさやを説得するつもりなのだろうけど、そんな理不尽な存在にそれは現実的なことじゃない。運が良ければ無事で済むかもしれないが、それはあてにしない方がいいだろう。そんなものに、無辜の市民である君をみすみす行かせるわけにはいかないな」
 その言葉に、太はやんわりと微笑む。
「そんな善良な人間じゃないですよ、僕は」
「そうでもないさ、太君。君は多分、自分が思っているよりずっと善良だ」
「いいえ、善良なんかじゃないです。だって僕は自分のエゴのために、貴方の正当な忠告を無視してこの先に行こうとしてるんですから」
「意思は硬いようだね。仕方がない」
 太一を気絶させよう。あまり気乗りはしないが、彼のような若者をその無残に散らせるようなことは断じて阻止されなければならない。結果、それで彼に恨まれることになろうとも。
 日向は手にしていた刀を使って、太を打とうとした。
 それで終わる筈だった。
 しかし、
「っ!」
 その次に倒れていたのは自分の方であった。
 一体何が起きたのか。日向が立ち上がろうとするが、そこに太が手をかざしてきた。
「動かないでください。動けば、今度こそ貴方を気絶させます」
「太君」
「僕も多少の覚悟はしてきました。何の考えもなしにさやの所に行こうとしているわけではありません」
「君は一体」
 日向は理解した。太は何らかの方法で一時的に力を手に入れたのだろう。だが、そういうものは得てして何らかの代償を要求するものである筈だ。
「何故、そこまでして彼女を」
 時間で測るものではないが、掛け替えのない友人と呼ぶにはいくら何でも短すぎる。命を、代償を差し出すには、あまりに天秤が釣り合わない。
 日向の考えを汲み取ったかのように太は口を開く。
「思い出したんです。小さい頃、自分にとても親しくしてくれた少女がいました。あの子は何処か浮世じみていて、そもそも何処の家の子かも分からなかったのですが、その少女といると何だか特別な気持ちになれたんです」
 人に対して優越感に浸るとか、そういった心持ちではない。もっと、淡い夢のような何か。
「ですがその子はある日、もう会えない、と静かに自分に告げました。僕はあの時本当に子供だったから、渋るその子の気持ちも考えないでしつこくその理由を問いただしたんです。そうして、その時初めてその子が人ではないのだということを知りました。その子は忌み子だとか忌み神だとかで、そのせいでその力を恐れる人から狙われていました。だから、彼女はそんないざこざに僕を巻き込みたくなかったんだと思います。そうして、取り返しのつかないことになってしまいました。彼女は多くの人を傷付け、そして僕の前から姿を消しました」
 太は顔を歪ませる。まるで、これから告げることが自分にとって呪詛であるかのように、その言葉を紡ぎ出すために唇を震わせている。日向はそんな太の様子をただ見つめた。
「傲慢かもしれない。でもあの時僕は何か力になれたかもしれないのに。僕は、僕は何もしなかった。僕は、結局何をするでもなく、ただ傍観者でしかなかったんだ」
「君は、人として間違えたことはしていない」
「そうなのかも、しれません。そういう時、余計に首を突っ込んだりせずに傍観者でいることがやっぱり真っ当な人の在り方なのかもしれません。ですが、それでも僕は後悔しています。どうして彼女の手を取れなかったのだろう、あんなに大切な人だったのに、どうして、僕はもっと踏み込もうとしなかったのだろうって」
「太君」
「多分、僕はこれからも傍観者であり続けると思います」
 それが自分の在り方であると理解している。自分は、あくまで起きている出来事を記録し、伝える人間。だけど。
「だけど、これだけは譲れないです。たとえそれがタブーだとしても僕は、今この時だけは表舞台に上がります。さやはあの時のあの子と同じだ。だから僕はこの時だけは観客でも傍観者でもなく、ただ一人の役者として、さやの元へ行って、彼女を止めます」
 日向は太をまじまじと見つめ、そして、軽く笑みを湛えながらため息をつく。
「このまま断ったら、本気で気絶させられかねないか」
 日向は太に聞こえなくらいにボソリと呟く。
「二十分です」
「え」
「二十分待ちます。彼女を止めに行くのでしょう? それならば、少し猶予がいると思いますよ。しかし、それほど長くは待てない。二十分で決着が付かない場合はすぐに私がそちらに向かい、さやを斬ります」
「は、はい。ありがとうございます」
「吉報を」
「ええ。必ず」
 太は軽く会釈をしてから階段へと向かって駆け出した。その様子を見ながら、日向は思わず表情が綻んでしまう。
「やれやれ。このことは何て説明すればいいのやら」
 苦笑しながら、その少し頼りない、しかし決意に満ちた背中を見送りながら日向は思う。
「役者として、と言ったけど太君、これじゃ主役みたいだな」