ロストミソロジー 十四章:さや

 たかだか数百メートル程度の盤上の小さな出来事だったが、それは荒唐無稽な神話であった。さやによって放たれるう膨大な魔力による光の渦は、しかし太が自らの周りに張った結界、あるいはその刀によって尽く防がれてしまう。さやはさやで、太に近付かれないようにしながら、時折放たれる呪術を光で灼くようにして防いでいた。
 さやは眼で対象を焼き切ることも出来る。しかし、その眼によって生じる力の流れも太が手にしていた剣によって断ち切られているようだった。剣が切るものは石や盾などといった具体的な形を持った物ではなく、より抽象的な事象に近いものなのであろう。そういう意味で言えば、太が今手にしている刀はさやにとってはこの上ない脅威であった。何故なら、神霊というものはどちらかと言うと概念的な事象に近いからである。
 両者は膠着状態に陥ったかに見えた。しかし、少しずつではあるが確実に太がさやに近付きつつあるのが望月、本居にも理解出来た。
 そして、数分が過ぎた後、太の刀がさやを捉えた。
「くっ」
 さやは口を歪ませる。
 太はその刀でさやの体を逆袈裟に斬った。血は出ない。しかし、さやを斬った所から光のようなものが流れ出していた。
「この程度で、勝ったつもりか、はじめ?」
 さやは斬られた所も抑えようともせずに、太の刀を握った手を掴もうとする。実際の所、さやにとってそれは軽傷であった。彼女の傷は、持ち前の再生能力で殆ど癒えつつあり、こんな時に気にしているようなものではなかった。
「詰めが甘かったな」
「いいや、そんなことはない。狙い通りだよ」
「何を馬鹿なことを言って――」
 さやは自分の体に違和感を感じた。思うように体が動かなかった。
 さやがふと下を見下ろすと、自分の体に文字のようなものが巻き付いているのが分かった。
 さやは瞬時に理解した。
 さやは太の手元を見る。そこには、何も握られていなかった。
「流石だね。そうだよ。これはフミツカミだ」
「小癪なことをっ!」
 さやを斬るのではなく、さやを縛るために刀を用意した。そのためのそのためのフミツカミの刀。
「く、こんなもの!」
 さやはそれを引き剥がそうとするが、それは微動だにしない。
「君は眠りから起きたばかりで、加えてさっき望月さんから自分を守るためにだいぶ力を使ってたんだろう。そんな君に、今それを破る力はない」
 本居が太に向かって走り出す。所詮、少年、死角からの襲撃には対応出来まい。そうしていざという時に隠し持っていた短刀で背後から太に突き立てようとする。掠めるだけでいい。それでさやを縛っているものが解けるならば。
 短刀を降る。それは確かに太の背中に突き刺さった筈であった。本居は一瞬勝利を確信した。しかし、その凶刃は空を突いていた。何故? と疑問に思うより先に本居は反射的に横を振り向いた。
 そこには、確かに眼前にいた筈の太の姿があった。
「無理ですよ。貴方の願いが叶うことはない。どうか、諦めてさやを開放してあげてください」
「いいや、最後の最後まで諦めない。自分達の信じていたものを、太陽を貶められ地に堕とされたのです! あまつさえ最初からそんなものなどいなかったとでもいうように、記録から徹底的に抹消された……! 幾千幾万の時をまるで惨めな虜囚の気分で、私達はずっと耐えてきた、ですから……!」
 本居は自分の肩にナイフを突き立てる。文字通り刺すような痛みが全身を駆け巡る。吐息を荒くして目を大きく見開きながらも本居ははっきりと太を視認した。
「引くわけにはいかんのだ!」
 再び、ナイフを太に突き出す。
「っ!?」
 しかし、ナイフはやはり太の体に突き刺さることなく空を突き、勢い良く突いたことで本居はバランスを崩して地面に転げる。
「ぐ、うふっ」
 思わず呻きをあげる本居。しかしなおも立ち上がろうとするが、体が金縛りにあったかのように動かない。
「ごめんなさい。貴方の感じてきた痛みは分からないし、貴方がどんな思いでここまでやってきたかなんて分からない。貴方の思いを踏みにじるわけではないのだけど、言っても聞いてもらえないのなら、貴方も縛るまでです」
 太は依然さやから目を離さずにそう告げた。それを口惜しそうに本居は見つめる。
 本居の家は代々呪術だとか魔術的な才能というものに縁がなかった。だからこそ社会的な成功に縋ったのだが、その空っぽの才能が今という時ほど悔しいことはない。今の自分にそれがあったのならば、あるいはこの少年の起こしているであろう幻術なぞ打ち破ってすぐにでもさやを助けられたというのに。
 本居は生まれて始めて慟哭した。最早、その願いが叶わないものであると理解したから。何があっても「自分達の神の再生」という根幹があったからこそ、耐え抜くことが出来た。その願いが、根幹が崩れさってしまった。
 ただ、子供のように泣き叫ぶしかなかった。最早それだけしか、本居には残されていなかった。
「……どうやらここまでのようだな」
 いつの間にか抗うことを止めていたさやは、目を閉じて静かにそう呟いた。
「さあ、さや。もうこんなことは止めよう。今ならまだ間に合う。一緒に北宮神社に帰ろう」
 本居の慟哭に太は顔を歪めながらも、静かにさやにそう告げた。
「それは、無理だ」
「何で」
「当たり前だ。ここまで啖呵を切っておいて今更許されるわけがないだろう。私は、口惜しい、が、然るべき結末を受け入れるつもりだ」
「何でだよっ!」
 太は言った。
「あんなに楽しそうにしてたじゃないか。どうしてそんなに頑固なんだ。神様なんだったら、もっと勝手気ままに振る舞えばいいだろっ!」
「私をそこらの神と一緒にするな」
 さやは太を牽制するように、しかし微笑しながら言った。
「本居の目的を肯定し、此奴めと共に行くことに了承したのだ。今更上手くいかなかったとて、都合よく戻れるわけがなかろう」
「何だよそれ」
 太は俯く。
「矜持、とでも言えばいいのかな。まあ、そんなやつだ。潔く諦めろ。それとも私がいないと生きていけないか?」
「そんなことは」
 むっとして太は顔を上げる。 
「しかし弱っていたとはいえ、まさか、はじめなんぞにしてやられるとは」
 そんな憎まれ口を聞いて太は少し苦笑する。
「余計なお世話だよ。っていうかさや、君、躊躇してたでしょ」
「は、そんなことはない」
「ま、それならそれでいいよ」
 さやは否定するが、しかし、太には確信があった。何故なら、何度も自分を消し飛ばすくらいの隙があった筈なのに、その都度にその手を止めていたのだから。
「何れにせよ過ぎたことだ。はじめ、この上戻ろうなどとは言ってくれるなよ」
 太は無言のまま目を伏せる。少しの間沈黙が続いたが、やがて太の口が開いた。
「……分かったよ。さや、君自身がそう決めたのなら、もう何も言わない」
「物分りが良くて助かったよ」
「じゃあ、これで終わりだ。さや」
 太はそう言うと、内ポケットから小さな本を取り出し、もう片方の手でさやの前に手を翳す。
「……」
 太はさやを"眠らせるための言葉"を口にしようとする。
 しかし。
 太はそこで静止したまま、さやを見つめたまま、次に発するべき言葉を口にしようとしない。
「どうした、はじめ」
 しばしの間が経ち、さやは不思議そうな目で太を見る。太は、口をきつく閉じたまま、さやを見つめ続ける。
「君の勝ちだ。さっさとやりなさい」
「うん、分かってる」
「今更出来ないとかなしだからね」
「分かってるって」
「分かってるなら、早くやっちゃってよ」
「言われなくてもさ……」
 太は俯く。何で、こんな時になって迷いが生じるのか。もしこうなってしまった時は自分がさやを……それは、何度も決めたことなのに。代償だって払った。なのに。
 はあやれやれ、と太は目の前で少女がため息混じりに呟くのが聞こえた。
「はじめ、顔を上げなさい」
「え」
 太が顔を上げると、そこにはさやが、以前と変わらぬ時のままの笑顔を堪えていた。
「そういえばさ、あの夜の人気のない路上で何で貴方の前で行き倒れたんだろうって自分のことながら思ってたんだけどね」
 ああ、あの時のことか。太はさやと出会った日のことを思い出す。しかし何故今、そんなことを話すのか。
「神様だった時の記憶を取り戻した時にちょっと色々余計なことも思い出しちゃってさ。それで、気付いたの。ああ、そういうことだったんだって納得しちゃった」
「さや?」
「あの時は記憶なかったのだけど、貴方とは顔馴染みだったから、私は無意識に貴方を頼ったのね」
 太がハッとした表情でさやを見つめる。そんな太を見て、さやは苦笑する。
「泣き虫はじめ。相変わらず人のことをちゃんと覚えない子ね。よくそんなので物書きが務まるものだわ」
「そんな、さや」
「なんてね。ごめんはじめ、貴方の心に封をしたのは私なの」
「封」
「そう、封。私に関する記憶を貴方が引き出せないようにしてたの。貴方優しいから、私のために傷付くのが嫌だなあと思って。あ、どうやってやったとかは聞かないでね。腐っても神様だから、そういうのは不思議なパワーってことで」
「そっか、そうだっんだ」
「でも結局思い出しちゃったのね。誤算だった、私もそこまで考えが及ばなかったわ。もし忘れたままでいてくれたのなら、もっと躊躇なく私を封印していたでしょうに」
「そうだね。もっとキッツイやつかけてくれてたら、僕もこんなに思い悩まなかったよ」
 太は声を押し殺したように言った。
 しかし、それはもう過ぎてしまったことだ。自分は『真統記』に眠っていたさやの記録を覗き見ることでそれを思い出した。優しかったさやがここにいる。変わらない姿で。
 太が静かに両手を下ろす。それから、深呼吸をした。
「ホントさ、分かってるんだけどさ」
 そう呟いてから、太はその場に崩れ落ちた。
「君をこのままにしちゃいけないって分かってるのに」
 さやを眠らせる。それが今自分に出来る最善の方法だ。だから、そうするべきなのに。
「また君を見捨てるようなことなんて、僕には出来ない」
 さやを止めるために、ここに来たのに。止めるということの意味を理解していた筈だし、その覚悟も出来ていた筈なのに。
 さやを縛っていたフミツカミの縛が少しずつパラパラと崩れていく。
 さやは力なく崩れ落ちた青年に視線を落とす。それから静かにしゃがみ込み、その青年の体を抱き寄せた。
「あっ」
「ありがとう。でも、もういいの」
「でも……」
「私がいいんだから、いいの」
 そうしてしばらく太を抱き寄せると、そっと太を離し、右の顔を優しく撫でる。
「あれ、見える」
 気が付くと、太の失った片目に再び光が宿っていた。
「本当に、馬鹿なことして。私が偉い神様じゃなかったら、ずっとそのままだったんだよ」
「う、五月蝿い」
「もう、素直じゃないな」
 そうして太の頭を撫でると、さやは静かに立ち上がる。
 さやの視線の前には、日向が立っていた。
「失礼、いと貴き日の神よ。どうか無粋な真似をすることをお許しいただきたい」
「構わぬ。猛きジンムが兵よ、私がいては都合が悪かろう。ああ、その前に少しだけ願いを聞いてくれぬか」
「……恐れながら、内容次第でございます」
「なに、簡単なことだ。そこにいる本居正一のことを不問にしてやってくれ」
「不問に、ですか」
「大赦というやつじゃ。お前達にとって大罪であるということは否定出来ないだろうが、私がこうして大人しく敗北を認めるのだ。釣り合いとしては十分だろう」
「そうですね、可能かと。本居氏は社会への影響力も持っている。いくらでも口実はつけられるでしょう」
「そうか、それはよかった。ああ、一応釘を指しておくが、後でやはり気が変わって罰を与えるなどしたら祟るぞ?」
「ふふ、それは誠に恐ろしいですね。国が傾いてしまう」
「さや、私は」
 抜け殻のように弱々しく顔を上げる本居にさやは穏やかに微笑む。
「すまない、本居。先祖代々私を忘れずに尽くしてくれたというのに、こんな結末になってしまった。ああ、誠に弁明の余地もない故、呪詛を吐いてしまっても構わんぞ」
「……いいえ、滅相もない」
「そうか、それは残念だ。だがそうとして、私と殉死などと申すなよ。迷惑だ、お前は生きよ」
「しかし」
「商売人の癖に、そんな景気の悪い顔をするな。確かに口惜しいが、二度も敗北したのだ。最早諦めるより他あるまい。本居、お前は私のことを覚えていてくれるのだろう? ならば、それで良しとしよう」
「う、うう」
 ただ本居は項垂れ、ただ静かに声を震わせる。
「さや」
 望月がさやに語りかけると、さやは望月の方を振り返った。その表情は、以前見せた時と何ら変わらぬ、あの眩しいほどまでに無垢なものである。
「望月さん、色々とお世話になりました。短い間でしたけど、本当に楽しかったです。ええ、まるで夢のような日々でした」
「そう。よかったわ」
「図々しいことなんですが、天野さんと、それから小梅ちゃんにもよろしく言っといてください」
「はいはい。分かったわよ」
「ありがとうございます。これで一安心です」
 そうして、さやは再び日向の方を振り返った。
「さあ、もうよいぞ。やってしまうがよい」
「は、それでは」
 日向は静かに、そして思わず見とれてしまうような所作で刀を抜く。まるで、これから儀式でも行うかのように。
 躊躇うことなくその切っ先をさやの前に向けた。そしてそのまま流れるように刀を振り上げる。しかし、そこで刀の動きは止まる。
 日向は目を見開き咄嗟に後退する。
「……え」
 太は眼前の光景を疑った。目の前には鮮血が落ちる。余りにも鮮やかな赤い色。その綺麗な赤の持ち主は、自分でも何が起こったのか分からぬといった表情で太を見下ろした。
「はじ、め?」
 さやがその違和感の元を確かめるために視線を下げると、自分の胸から腕が突き出ているのが分かった。
 なんだろう、これ。
 その疑問に答えるかのように、低い静かな笑い声が辺りに響き渡った。
「保険の中の保険、といった所だが、まさかここまで追い詰められるとはな」
 声はさやの背後からしていた。
 日向はさや越しにその姿を認めた。その黒い姿、仮面とも顔ともつかないそれ。
 そこにいるのは、ファントムであった。