ロストミソロジー 十四章:さや

「猶予もないのでな。早速その体を貰い受けよう」
 ファントムが手を引こうとする。
「この程度の損傷ならすぐに治せる。安心して渡すといい」
「それは駄目よ」
 ファントムの手をさやは両手で掴む。
「抵抗する気か? 今更」
「だってこの体、別にレンタルしてるわけじゃないんだもの。はいそうですか、なんて貸し出すわけにはいかないわ」
「なるほど、一理ある。ではお前の同居も許そう。私の力も使えるようになるのだ。この状況から切り抜けることも可能だろう」
 そのファントムの提案に、さやは思わず笑みがこぼれた。
「何がおかしい」
「本当に、貴方追い詰められてるのね。勝手に私の体の所有権を自分のものにしたり、ましてこの状況から切り抜けられるなんて、希望的観測もいいとこ」
 その言葉に平静を保っていたファントムは苛立っているかのように体を震わせる。
「ええい、眠りから目覚めたばかりの小娘が。貴様はさっさと私の言う通りにすればいいのだ」
「可哀想に。そんな野卑た言葉、昔の貴方なら使うなんてことはなかったでしょうに。これ以上貴方が恥の上塗りを重ねて格を落とすことがないように、今私が貴方を浄化してあげるわ」
「巫山戯るなよ」
「巫山戯てなんかないわ。それをこれから証明してあげる」
 ファントムは残っている力の限りさやの手を振りほどこうとする。しかし、それはピクリとも動かない。
「おのれ、おのれ! まさか心中する気か。気でも狂ったか小娘!」
 日向が静かに刀を構えようとする。しかし、それを「待って」とさやは制止した。
「ごめんなさいね。まごまごしたけど、結末は同じ。後は自分で後始末を付けるわ」
「……」
 日向は納得したように刀を下ろした。 
 その次の瞬間、さやを貫いていた手を煌めくような火が包み込んだ。ファントムは悲鳴を上げる。火に包まれたのは手だけではなかった。全身を、見とれてしまうほどの火の本流が巡っていた。
「おおおお!」
 ファントムの手がさやから外れた。
 灼ける。灼けてしまう。自分という存在が。
 どうして。ここまで堕ちてやったというのに、どうやっても、自分は元にすら戻れないのか。
 こんなものが、私の末路か。
 こんなものが。
「大丈夫ですよ。また一からコツコツとやり直せばいいんです」
 まるで太陽のような朗らかな笑顔。
 ……
 ああ。
 そういえば昔、こんな笑みを、そんな言葉を私に言ってきた女がいたか。
 惨めで間抜けな私に付き従ってくれた彼女は、果たして幸せな一生を過ごせただろうか。
 ああ、それだけで十分だった。私に付いてきてくれた彼らの行く末を見届け、それが幸せであることが分かればそれでよかったのだ。
 一体、私は何処で間違えてしまったのか。
 ボロボロと崩れていく手をその女は優しく包み込んだ。

「さや」
 太はさやに語りかけた。さやは振り返りざまに微笑む。
「はじめ。今度こそお別れね」
「うん」
「でも本当に、貴方と会わなかったら私の目論見だって上手くいってたでしょうに」
 さやの体から光が漏れ出て空へと昇っていく。そしてそれに合わせるように少しずつ、さやの体が透けていくのが分かった。
「悪かったね、こんなんで」
「ま、いいんだけどね」
「さや」
「ん、何?」
「また、会えるかな」
 少しの間、沈黙が流れた。分かっている。そんなことは叶いっこない願いだということは。だからこそ、別れなんだ。
 だけど。許されるなら。
「会えるわよ。きっと」
 さやは笑う。まるで、本当にそれが出来るかのごとく。
「……本当に?」
「ええ、本当に。いつになるかは分からないけれどね」
 そうして、さやは今にも消えてしまいそうな手を差し出す。
「だから、別れの言葉はさようならではなく、こう言わないといけないわね」
 太はその手をしっかりと掴む。もうほとんど空を掴んでいるかのようだけれど、確かにそこにさやの温もりを感じた。
「またね、はじめ」
「うん。またね、さや」
 ゆっくりと少女は笑みを堪えながらその姿を薄めていき、やがて、完全に見えなくなってしまった。
 晴天の空にも関わらず、雪が降ってきた。太の肌に触れたそれは冷たかったが、同時に、何故だか暖かかった。
「またね」
 太はその言葉を噛みしめるように再び口にした。