異界手帖 二章:依頼

 夜明けを伝える鳥の囀りが聞こえてきた。澄んだ空気が辺りを包み込み、体についた淀みのようなものを洗い流してくれる。
「んー、気持ちいい。深夜と早朝はいいね」
 青年は人気のない歩道を歩きながら思わず呟く。彼は精一杯伸びをして空を見上げた。
「週に一、二回くらいは早朝に起きて外を走るようにするのも悪くないかな。よし、検討してみよう」
 青年は人がいないのをいいことにブツブツと呟きながら目的地を目指す。
 青年の名は太一、日本の地方都市である菅原市の大学に通う学生である。彼はふとした出来事から異界の住人に関するあれこれを請け負う客士院の一員となった。それは、しばしばの戸惑いを彼にもたらしたが同時に、書き物を生業としている彼の好奇心を満たすのに十分な体験をもたらすものであった。
 青年の目的地は北宮神社と呼ばれる社である。比較的沿岸部に位置しているこの神社は、高台にあるために境内から海を望むことが出来るが、市内でもその存在を知っているものはそう多くなく、昼間であっても閑散としていることが多かった。
 太はそんな神社の石段を登り、境内に足を踏み入れた。
「あれは」
 太は拝殿の方を見やると、長い黒髪の少女と思しき人影が拝殿に向かって願い事をしているようであった。
「やあ。また会ったね、たまき」
 願い事が終わったのを見計らって太は少女に声をかける。たまきと呼ばれた少女はゆっくりと背後を振り返り、太の姿を認めると、柔和な笑みを彼に投げかけた。
「おはようございます。はじめ」
「うん、おはよう。そういえば前もここで会ったけど、ここにはよく来る方なの?」
「そうね。この場所は好きだから。特に最近はよく来てるかしら」
「最近、というと何か特別なことでもあるの?」
「ええ。実は近いうちに遠い所から親しかった人達が訪ねてくる予定なの。だから、無事に彼らが来られるように参拝しているのです」
「そっか。願い事叶うといいね」
「ありがとう、はじめ。そういえばはじめとは前もここで会いましたね。この神社にはよく来るのですか?」
「うん、まあそれなりに来てるかな」
「では一体何の願い事をしているのでしょうか? とても気になりますわ」
「ああ、僕? えーっと」
 太は言葉に詰まる。彼は参拝こそすれ、特に願い事を持ってここに来ているわけではなかったからである。彼の用事は一つ。ここ北宮神社に拠点を構えている客士院に出向くことであった。
「まあ、こう見えても物書きをしている人間だから、それが捗るようにお願いしているんだ」
 太はそれっぽいことを言ってお茶を濁そうとした。事実、物書きはしていたし、そう願ったこともあるにはあったからあながち嘘ではあるまい、と太は心の中で呟いた。
「そう、素敵なことね」
 たまきは屈託のない笑顔を見せる。
「あとね」
「あと?」
「神様も願い事ばかりじゃうんざりするだろうから、感謝の気持ちを告げつつ日々起きたことを報告しているよ」
「ふふ、はじめは変な人ね」
 たまきは口を押さえて笑う。
「えー、そんなに言われることかなあ」
「ねえ、はじめ。少しお聞きしたいことがあるのですけど」
「ん、何かな?」
「この近くでパン屋さんをご存知ないかしら」
「ああ、それだったらここから歩いて五分くらいの所にナガノパンというパン屋さんがあるよ。ちょっと待ってね」
そう言うと太は懐から手帳とペンを取り出し、さらさらと何かを書き出し始めた。そしてそれを書き終えると、紙を破ってたまきに渡した。
「少しアバウトだけどこれ辿っていけばいけるよ、どうぞ」
「ありがとう、優しいのね」
「いえいえ。それより、パン、好きなんだね」
「そう、ね。特に、クロワッサンが好き。いつから好きになったのかも、好きになった理由も覚えていないのだけれど、でも何か懐かしい気持ちがするの」
「凄く小さな頃に誰かに食べさせてもらったことがあったのかも。それが記憶の深い所に残ってるのかもね」
「……そうかもしれないわね。でも、もうさっぱり思い出せない」
風でなびいた髪をたまきは手で押さえる。艶やかで見とれてしまう黒髪。太はついその黒髪に釘付けになってしまった。
「それでは、はじめ。また会いましょう」
「え? あ、うん。またね」
たまきの言葉に我に返った太は返事をした。たまきは境内から階段を下っていき、やがて見えなくなる。
「さて、と。僕も行かないと」
その小さな後ろ姿を見送っていた青年は社務所に向かって歩き始めた。
また、会えるかな。太はいつの間にかそんなことを考えている自分にハッとし、雑念を切り払うかのように頭を振りながらその場を後にした。
「……あれは、まさか、な。考え過ぎだ。第一あいつはもう」
建物の物陰から境内の様子を伺っていた男は小さく呟いた。