異界手帖 七章:鷹と蛇

 天野と弓納は当てどもなく屋敷を歩き続ける。
 屋敷の内部は市内の生野邸とほとんど変わっていない筈だが、何故かとてつもなく広く感じる。二人はそれとなく生野邸の見取り図を頭に入れていたのだが、それがさして役に立たないことを理解するのに数分もかからなかった。
「なあ弓納」
「はい、何でしょうか?」
「何で望月達が付いてこないと思う?」
 天野はさっきから抱いていた疑問を弓納に投げかけた。天野と弓納が屋敷内に入っていった後、すぐに望月と日井も追ってくるのかと思っていたが、一向に二人が追ってくる気配がなかった。
「そうですね。あまり考えられないですが、急遽別行動を取ることにしたのか、あるいは、付いていきたくても付いてこれない事情があったとか、でしょうか?」
「付いてこれない事情ね。例えば?」
「何者かの襲撃を受けた、とかです。ほかには、扉が開かなくなった、とか」
「なるほどな。確かに扉が開く気配がなかったから、扉が開かなくなったってのはあり得るか」
 って言っても、傍若無人なあいつなら無理やり壊して入る可能性もあるがな、と天野は当人がいないのをいいことにここぞと悪態をつく。
「傍若無人なのは天野さんに対してくらいですよ。私にとっては頼れるお姉さんみたいな感じです」
「そうなんかねえ。はあ、じゃあ何で俺はこんなに扱いがぞんざいなんだ」
「気の置けない人ってことですよ。いいではないですか」
 いいや遠慮されたいぜ、と嘆きながら扉を開けて中に入る。
 しかし、その部屋に天井はなかった。
「ここは外か」
 天野は上空を見上げながら言った。
「はい、しかも屋敷の正面玄関ではないでしょうか?」
「ようこそいらっしゃいました」
 上から刺すような透き通った女の声がした。
 天野と弓納は声のする方を見上げると、洋館入口の建物の上に整然としたたたずまいで信太が立っていた。
「あんたか」
「ご機嫌麗しゅうございます」
 そう言って信太は丁寧にゆったりとした仕草でお辞儀をする。手の動き一つをとっても無駄のない動きに、一瞬天野は見とれてしまった。
「望月様と太様がいらっしゃらないようですが、どうされました?」
「よく言うぜお嬢さんよ。二手に分けたのはそっちの仕業だろう」
もっとも、太君は来ていないが、天野は心の中で呟いた。
「さて、何のことでしょう」
「まあいい。生野さんはどこだい?」
 天野が問いかけるが、信太は目を閉じて「答えるわけには参りません。いえそもそも、彼の居場所など私も知りません」と突っぱねた。
 ふと、弓納がぼそりと「あれ」と呟いた。
「信太さん。つかぬことをお聞きしますが、貴方はメイドというわけではないのでしょうか?」
「あ、何言ってるんだ弓納。どう見ても――」
「確かに、仰る通りでございます」
「な」
 天野は呆気に取られた。そこにいる整然とした佇まいの女はどう見てもメイドである。誰のメイドかといえば、言うまでもなく生野家のであろう。しかし、それを信太はあっさりと否定した。彼女は自分のことをメイドではないと言ったのだ。
「この前あの屋敷で対峙した時もそうでしたが、生野綱に対する物言いはどことなく従者というよりは気のしれた友人に対するようなものに感じました。さっきのもそうです。自分の主人のことを"彼"だなんて言いませんよね」
「ご推察の通り、私と彼とは古い友人です。そしてこれは、私の趣味のようなものです。彼の使用人を演じていたのも只の道楽。あら、天野様、理解出来ない、という表情ですね。ですが、趣味とは往々にしてそういうもの」
「そういうものかねー」
「ご安心を。道楽とはいえ決して手を抜いたことはございません故」
「ほうほう、そうなのか」
「さて、おしゃべりもこれくらいでよろしいでしょう。準備はよろしいでしょうか」
 信太の背後に尻尾が生えていく。しかし、生えてきた尾の数は一本ではなかった。
「四本、生えてきましたね」
 弓納が言うと、天野は頷いた。
「ああ、前もそうだったよ」
 信太から生えてきた四本の尾は月光に照らされて輝き、豊満な尾は風が吹くたびに稲穂のように揺れていた。
「何も持たなくていいのですか? 少しは待ちますよ」
 既に臨戦態勢に移っている弓納を尻目に、天野に向けて信太は言った。
「そうだな。それもそうだ。じゃあ信太さん、ちょっと待って、くれねえかな」
 そう言うや否や、天野はいつの間にか手にしていた弓矢を構えて瞬時に弓を信太に向けて放つ。風を切って音よりも速く突き進む矢は信太に命中したかに見えた。しかし、矢が射止めたのは空のみ。そこに信太の姿はなかった。
「ちっ」
 天野は思わず舌打ちする。まさか仕留められるとは思わなかったが、少しは次の攻勢を有利に繋げられるかと考えていた。
「どこだ」
「後ろっ!」
 弓納は足を振り上げて、天野を背後から切りかかろうとした信太のナイフを弾いた。信太は衝撃で少しだけよろけたが、すぐに態勢を取り戻し、後方に退いた。
「助かった。弓納」
「いえ」
「素晴らしい身体能力です。後一歩のところでしたのに」
「どうも」
「弓納様が付いていたのでは、天野様に一太刀入れるのも容易ではなさそうです。ですので、これならばどうでしょう?」
 信太が片手を横に広げる。
「どうした。何も起きないが」
「いいえ、もう起きています。周りをご覧ください」
「いいや、その古典的な手には乗らない」
「いえ、天野さん。確かに何か起きてました」
 弓納が天野にそっと告げると、信太に警戒しつつ、天野は周りを見渡す。
 そこには四頭の青白く光る狐が天野と弓納の周囲を取り囲んで威嚇していた。
「生き物、ではないようだな」
「ええ、私の分身ですもの。私の意図した通りにしか動きませんわ」
「いいのか、そんなに情報をぺらぺらとしゃべって」
「ええ。弱点をお教えしているわけではございませんので、何ら問題はございません」
「そうか、それはありがたい」
「いつまでそう言っていられるのでしょうか? そのお顔が苦悩に満ちる瞬間が楽しみですわ」