鬼姫奇譚 五章:仙涯境

 千丈山は菅原市の外れにある山で、別名古処山とも呼ばれる。休日には登山客で賑わうこの山は古くから山岳宗教の聖地として知られており、山伏達による痕跡があちらこちらに残されている。
「こんな所に仙涯郷があるのか?」
「ええ、そうです」
「まるで、桃源郷みたいだな」
 山の中腹にある岩場で轟轟と勢いよく流れ落ちる滝を眺めていた天野は、側にいた羽白に話しかける。
「はは、まあ楽園とも言えなくはないですな」
「すみませーん」
 天野がぼやいているところに、遠くからおっとりとした声がした。声の主は八重千代である。彼女は家の者に用事を伝えるために、一度屋敷に戻っていた。
「申し訳ありません。我が儘を言ってしまって」
「構いませんよ。それより」
「どうしました?」
「よくその服装で山を登ろうと思いましたね」
「え? おかしいですか?」
 そう言った八重千代は着物に被布のコートを纏っていた。
「いえ、何でもないです」
 ついでに着替えるというからてっきり動きやすい服装にでもするものだと天野は思っていた。天野の様子に気付いたのか気付かなかったのか、彼女は自慢げにこう言った。
「あ、一見分からないかもしれませんが、これ結構動きやすく改造してあるんですよ」
「動きやすくっていうと、洋服の方が動きやすいかと思うのですが、それではいかんのですか?」
「いいえ、いかんのです。気を引き締める時は着物と、私の中で相場が決まっております」
「普段も着物ですが」
「え、ええ。確かに、そうですが」
 不意を突かれ、八重千代は思わずしどろもどろになる。そして、そのやり取りの中で天野はふとある疑問が湧いた。
「不躾で無粋な質問ですが、八重千代殿は洋服は着ないのですか?」
「い、いいえ。私も着ますとも。いいえ、着たいですとも。ただ」
「ただ?」
「洋服を着るたびに家の者に反対されてしまうのです。『八重千代様に舶来の服など相応しくないようだ』と、白目を向かんばかりに言うのです。理由を聞いても答えてくれない。ですから、あまり洋服を着る機会がないのです……」
 そう言って彼女は残念そうに頬に手を添える。天野は羽白の方を窺うと、羽白は肩をすくめる。
 彼は、「これ以上は詮索しない方がいい」とその目で訴えていた。