ロストミソロジー 四章:影、暗雲

「はあ、何でまたこんな下らないことするのかねえ」
 穏やかな昼下がり。駅近くの駐輪場で、坂上はぼやいた。
 最近多発しているのは殺人事件でも強盗事件でもない。目的の読めない窃盗事件であった。
 市内各地の駐輪場で自転車からペダルやサドルが抜き取られるという、なんとも他愛のない事件。盗まれた本人には申し訳ないが、こんなことをして一体何が面白いのか、坂上は依然理解に苦しんでいた。
 事の発端は最早分からない。そもそも、以前にもペダルやサドルが抜き取られるようなことはたびたび起きていたから、そこを追求することに大した意味はないであろう。個人でやっているのか、集団でやっているのか分からないが、現行犯で抑えてしまい洗いざらい白状させればいいだけなのだ。
「ああ、もしかして金にでもなるのか?」
 坂上はあまりそういったことは分からない。警務にあたる者としては是非ともそうした社会の事情に精通しておくべきなのであろうが、それにしても、ペダルやサドルといった部品単位で営まれる市場にまでは手を出したことなどなかった。売るならば、普通は自転車単位でだろう、坂上はそう思っていたし、だからこそこの不可解な現象を理解できないでいた。
 見張りの警官が戻って来たのを見ると、坂上は警官に特に何もなかったことを伝え、調査事項をまとめたメモをコートの内ポケットにしまってその場を後にした。
 世の中にたまに起きる珍妙な事件。多くはやはり人間の過ぎた悪戯が原因であるが、いくつかは未だその謎を解明出来ていない。
 だが、坂上は思うことがある。そういった事件はひょっとして"妖怪"なぞの仕業なのではなかろうかと。馬鹿馬鹿しいとは思うが、実際にそういった類の連中と関わってきたことのある今から考えると、それも現実的な範疇として考えられた。
「っといけね。あんまそういうことに染まっちゃいけねえか」
 坂上は頭からそれを振り払い、ロータリーの前まで来た。平日の昼、そこをゆく人々は少なく、営業で動き回っているらしい壮年の男性や、暇を持て余しているらしい大学生らしき若者をちらほら見かける程度であった。
 何の変哲もない日常。そんな中、一つだけいつもと違う者がそこを歩いていた。
 外国人と一目で分かる程に綺麗なブロンドと顔立ち、そして透き通るような白い肌。ピンとした背筋に長身、そしてその洗練された無駄のない歩き方からおそらくモデルなのだろうと思われたその女性は、背にコントラバスがまるまる入りそうな程の大きなケースを背負っていた。
 観光客か、坂上は思わず目を奪われてしまった。しかし、あんなごついケースを背負って、一体何処に行こうというのか。
「え、エクスキューズミー」
 坂上は思わず話しかけていた。典型的な日本人よろしく英語はほとんど話せない。しかし、ケースの中身が不安になって仕方がなかった。この目で中身を確かめるまでは安心出来ない。
「はい、何でしょう?」
 返ってきた返事は日本語。それも、外国人特有の訛りがないネイティブ並のレベル。坂上は頭の中で必死に英文を組み立てていたのを止め、日本語で話しかけた。
「申し訳ありませんが、捜査の一環で、差し支えなければその背に背負っているケースを確認させていただけないでしょうか?」
 一体自分は何をやっているんだろうと思いながらも、どうしても中身を確かめなければという思いに囚われた坂上は迷わず警察手帳を取り出した。
 少しの沈黙の後、女は徐ろにケースを取り出し、坂上にそれを渡した。
「はい、どうぞ」
 ケースを受け取ると、慎重に中身を開いた。
 詳しく検分するまでもなかった。中にはこれと言って変哲もないコントラバスと思しき楽器があるだけ。弓やその他楽器に必要なものらしい道具以外に何か目ぼしいものがあるわけではない。コントラバスの中身は気になったが、暴いたところで何もあるまい。
 坂上は道具を元のように丁寧にしまってケースを閉め、元の持ち主に返した。
「ご迷惑をおかけしました。大変失礼ながら何か中に入っているのではないかと疑ってしまったのですが、それは間違いでした。度重なるご無礼、どうかお許しください」
 坂上は罪悪感に駆られながら深々と頭を下げる。
「いいえ、気にしてませんわ。横柄な態度で来られたらちょっと抗議でもしてやろうかと考えたけど、徹頭徹尾礼儀正しく丁重にしてくれたから、何も言い返せませんね」
 女は踵を返して手を振った。
「それじゃあね、刑事さん。お勤めご苦労様」
「ああ、どうもありがとうございます。お気をつけて」
 そうして男からすっかり離れてしまった後、女はボソリと呟いた。
「全く、勘がいい刑事さんね。少し背筋がひやりとしたわ」