ロストミソロジー 八章:目覚め

 御笠山の中腹に立っている打ち捨てられたホテル。かつては人で賑わっていたであろうそこは、今や滅びを待つだけの廃墟となってポツリと山の中に静かに佇んでいた。
「は~極楽極楽」
 ホテルのテラスで澄んだ夜空を眺めながら、勘解由小路は水筒に組んだお茶で喉を潤していた。
「わざわざ神社に行って交渉事だなんてほんと気乗りしなかったけど、いやあ、私はなんてついてるのでしょう」
 横には、黒衣の人型をした影がのたうち回っていた。その腹に当たる部分には短い樫の木で出来たステッキが刺さっている。
 勘解由小路はその場でしゃがみ、その黒い影の頭にデコピンを当てた。
「ありがとねー黒子さん。貴方がいなかったら私、今頃ストレスで胃に穴が空いてたかもー」
「ギイイイ」
 影はどこからともなく呻き声を上げる。
「えへへ、貴方、秋月さんの報告にあった子でしょう。分裂されても困るし、ちょいと動き封じさせてもらいました。それにしても廃墟とはね、ま、貴方のような子が住み着くのには丁度いいのかね」
 勘解由小路は立ち上がり、手足をバタバタとさせるその黒い影をそのまま放置して室内へと入っていく。
 そこはホールになっていた。奥の方に舞台があり、かつては何か余興でも出来るような場所だったのだろうことを窺わせるそこは、今では壁面が所々剥げ落ち、隅には小さな瓦礫が散乱していた。
 その中心、そこには魔法陣のようなものが赤い光を放っており、その中に、さやが仰向けに倒れていた。
「ふーむ、やっぱり擬装してるってわけじゃなさそうだね。これは、本物の魔術か」
 やれやれ、勘解由小路は腕を組み、自分の不学を後悔する。これは、基礎知識くらいでもちゃんと学んでおくべきであったか。魔術の真似事をしている手前、多少は自信があるつもりだったが、実際にこういうものを目にするとこれがどういうもので、どうすれば解除出来るのかが今いち検討が付かない。
「あれが一体何者か気になるけど、それにしても迂闊に手を出すべきじゃないよねー。呪われたらたまらんし。あー、そうだ秋月さんに頼むかー」
 ナイス私、などと言いつつ勘解由小路は魔法陣に背を向け、再びテラスの方へ向かった。
「はあ、身から出た錆とはいえ色々と酷い目に遭っちゃったけど、これで後はこの子を連れて戻ればお勤めは終わり。そうとなればこの街ともお別れか。ま、今度はプライベートで行けばいっか」
 倒れた石柱の上に乗せたアンティーク調の籐鞄から、黒い折り紙を取り出す。勘解由小路が息を吹き込むと、その折り紙は見る見るうちに形を変え、蝙蝠となって宙を羽ばたき始めた。
「秋月さんに、さや運び出すためにここに来てって伝えて」
 蝙蝠はそれを聞くと、空高く飛び上がり、山の方へ飛んでいった。
「ま、急ぐもんでもなし。気長に待ちますか」
 勘解由小路は鞄からデジタルカメラを取り出し、テラスから見える夜景を撮りだした。
「おおー。こいつは中々絶景ですな。ネットにアップしても大丈夫かな。でもここ廃墟だからな。色々とまずい気がする」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、最初数分間は写真を撮ることに熱中していた。しかしそれもやがて飽きてしまい、ただ変わることのない夜景をぼーっと眺め続けた。
「こんなことなら漫画も持ってくるんだったな。携帯も電池切れそうだし。ああー暇だ暇過ぎる」
 ぶつくさと文句を言いながら、勘解由小路はデジタルカメラをしまいに鞄の置いてある石柱の所まで歩いて行く。
「他に何か持ってきてなかったかなー。あ、小説見っけ。これ前積んでたやつだ。何処に行ってかたと思ったら、ラッキー」
 がさごそと鞄の中を物色していた勘解由小路はピクとこめかみを動かした。
「あーれ、何で起きちゃってるのかなー」
 鞄を覗いたまま中を漁る手を止め、勘解由小路は"少し離れた所にぼーっと突っ立っているその女の子"に向けて語りかけた。
 そこにいたのは、さやであった。
「おっかしいね。あの魔法陣が私の見立て通りだとすると、貴方はこんな所に突っ立ていないで、今も彼処に王子様のキスを待つお姫様みたいに寝てなければならない筈なんだけど」
 勘解由小路はさやの方を振り向きつつ言った。しかし、その独り言のような問いかけにさやは何の反応も示さず、ただ虚ろな眼差しをあちらこちらへと向け続ける。
「ここはとある山の中腹にある、廃業したホテルの残骸。ああ不思議だよね、神社にいた筈なのに、気が付いたらこんな人気のないうら寂しい所だなんてさ」
 やはりさやはその言葉に応えず、ゆっくりと虚空を仰ぎ見た。勘解由小路も相手の出方を窺っているのか、その月明かりに映える白の髪の少女を見据えたまま動かない。
 冷たい風がテラスに吹き渡り、ただ朽ち果てるばかりのその建物の崩壊を手伝うかのように中へと侵入していく。
 不意に、その白髪の少女の唇が動いた。
 ……なんだって? 勘解由小路は怪訝な顔をして、断片的に拾い取れたそれを元に言葉の意味を構築しようとした。
「まだ、足りない」
 今度はハッキリと聞こえた。足りない、確かに彼女はそう言った。
 足りない。何が? いや、分かっている。それは、多分。
 さやは裸足のまま、ゆっくりとテラスの壁際まで歩き出した。一つ、また一つと勘解由小路との距離も狭まっていく。
「何処へ行くつもりなのかな。危ないよ、下はガラスとか瓦礫の破片とか一杯あるから」
 さやが勘解由小路とすれ違った時、勘解由小路は嫌に腹の底に残るような声音で言った。その言葉に反応したのか、さやはその歩みを止めた。
「悪いことは言わないから、大人しくここでじっとしててほしいな。じゃないと、私」
「疾く、失せるがいい」
 さやは初めて勘解由小路に対して口を開いた。それを、彼女は宣戦布告と受け取った。
「……ああそう。じゃあ遠慮しないよ」