ロストミソロジー 九章:かむひの日の神

 北野天満神社は菅原市の繁華街を北に数キロメートル言った先にある神社である。学問の神様を祀っているこの神社は特に年明けの受験シーズンとなると市内や近郊からやってきた人で多くなるが、それに加えて、その海まで見える見晴らしの良さから観光スポットの一つにも数えられていた。
「っていうか、今思ったけど菅原の神社って坂の上にあるの多すぎじゃ」
 太は神社へと続く階段を登りながらそうぼやいた。
 登りきるとそこは十メートル四方程の境内。中央辺りに舞台があるそこは休日ではあるが人がまばらであった。
 太は実質上の展望所になっている境内の一角に向かう。
 その日は晴れていて、くっきりと地平線まで見える。そこで大きく深呼吸をすると、ほんのりと秋の香りを含んだ空気が体に染み渡って疲れが吹き飛んだような気分になる。
「ま、ここにいるわけはないか」
 手すりに体を預けながら、そっと太は呟いた。
「太君?」
「えっ」
 太はその声に驚いて振り向く。
 そこにいたのは日向であった。彼は休日にも関わらずワイシャツにチョッキ、ジャケットを羽織っていたる。
「日向、さん。どうしてここに」
「うーんそうだね。受験祈願、かな?」
「えっと、ひょっとして……高校生?」
「ははは、冗談だよ」
「は、はあ。冗談」
 二段階で驚かされてしまった、と太は感じた。
「まさか日向さんから冗談が出るなんて、ビックリです」
「あれ、意外だったかな?」
「意外ですよ。だってそんなこと言いそうな人には見えないですもん」
「そっか、それは自分には意外だったな」
「そ、そうですか」
 隣いいかな、と言って日向は太の隣に立って境内から景色を見る。
「綺麗な所だね。ここから眺めてみると改めて思うよ」
「そうですね。でも見慣れちゃって最近有り難みがなくなりかけてきてますが」
 太は改めて日向を見る。相変わらず目を背けたくなるほど綺麗なオーラのようなものを身に纏っている。彼にも心身疲れて目に隈が出来る時などはあるのだろうか。
「あの、日向さん」
「何かな」
「今日も仕事、ですか」
「そうだね。世間は休日だけど、生憎僕は休めないのさ」
「やっぱり、さやのことで」
「いや、今日はちょっと別のことでね。実は今やっている仕事がさや、彼女の件だけじゃないんだ。こちらも優先順位は高い方で、だからこうやって平行してやってるというわけさ」
「それは大変ですね」
「そう、大変なんだ。いつの間にか僕も栄養ドリンクが手放せなくなってしまった。本当に、今度機会があれば愚痴でも聞いてもらいたいな」
 そう言って日向は春風の様な笑みを浮かべる。
「ところで、太君はここへ何しに来たのかな」
「特に理由はないのですが、何か、ここに来ればさやに会えるかなって思ったんです」
 そう言って、太は再び境内の外の景色を見やる。
 ここには、以前弓納とさやとで一緒に出かけた時に訪れていた。その時さやはウィッグを着ける前だったから案の定、さやは参拝客、果ては神社の人にジロジロと見られていたが、それでもさやは「近くに洋館があっていいコントラストになってる。素敵な所ね」と喜んでいた。
「日向さん。ちょっと唐突なことを聞くかもしれませんが、あと少しで思い出せそうなのに、どうしても思い出せなくてもどかしいことってありますか?」
「たまにあるよ。もっとも、大半はどうでもいいことなのだけれどね。でも、どうしてそんなことを?」
「いえ、大したことじゃないんです。何故だか、十歳以前の自分の記憶に断片的に欠落している時期があって、そこを思い出そうとしても、靄がかかったみたいに思い出せないんです」
「子供の頃だからね。珍しいことじゃないと思うけど、そんなに気にかかるのかい?」
「はい。そもそも自分の記憶に欠落があることさえ最近思い出したんですが、何だか大切なことを忘れてしまっている気がして。でも、可笑しいですね。そんな大切なことなら、忘れてしまわない筈なのに」
「いや、反対かもしれないよ。それは太君にとって大切だからこそ、思い出さないようにしてるのかもしれない」
「成程、そういうこともあるかもしれませんね」
 その記憶は触れてはいけないものなのかもしれない。だったら、このまま思い出さないままの方が、幸せなのかもしれない。
「そうだとしても、やっぱり僕は知らなければいけない」
「太君」
「すみません。つまらない話をしてしまいました」
「いいや、そんなことはないよ」
「それでは、僕はそろそろ行きます」
「ああ、もう行ってしまうのか」
 そう言って日向は手を差し出す。
「この地で会えた友人よ。願わくば、今度会う時には刺し違えることになっていないことを願うよ」
「そんな、縁起でもない」
 太は日向の手を握る。手から伝わる感触は、太に暖かさと彼の揺るぎない意思を感じさせた。
 仮にさやと会った時、自分はどうするべきなのだろう。太は、その手を握りながら、自分の中にある迷いをうやむやにしてしまったままであることに気付いた。