ロストミソロジー 十章:ムーンチャイルド

「お父様」
 父と思しき男の後を追って、人口の月夜に照らされた屋敷内の廊下を少女が小さな足で駆けていく。男は少女の声に呼び止められ、静かに振り返る。
「どうした、白夜見姫」
「聞きましたわ、地上のこと」
 小奇麗な着物に身を包んだ少女、白夜見姫は無垢に笑う。綺麗な白髪をしたその初老の男、綿津見はふうと軽くため息を付いてしゃがみ、少女の頭を撫でた。
「お前が気にすることではないよ。それより、部屋に戻って本を読んでいなさい。まだ課題として与えた本を読んでいないだろう」
「あの地上の偉い哲学者が書いた書物でしょう。読みましたわ。意見書もきっちりと書いて爺様に提出しました。ほら、私がお部屋に帰る理由なんてないでしょう」
 そうしてまた姫は笑った。綿津見はやれやれと心の中で頭を抱える。白夜見姫は利口であった。だが少々賢すぎるきらいがあるため、利口を通り越してかえって扱いづらくもあった。
 だからと言って、綿津見はその娘を嫌っているわけではなかった。確かにそのお転婆ぶりに悩まされることはあったのだが、綿津見はその娘をないがしろにした覚えはないし、疎んだつもりもない。
 だが、何処かでぞんざいに扱ってはいないか。そうした不安は多少なりとも心の中にあった。綿津見には子を育てるという経験が皆無であり、そもそも月人に子が出来た時にどうするかという習慣などがなかったからだ。およそこの国に子供が生まれるということ自体が特例中の特例であり、白夜見姫は生まれて間もない、永い永い時を経てきた者が大半の月人にとっては本当に幼い子供であった。
「ねえ、お父様」
「なんだね」
「地上ってどんなとこかしら」
「ああ、姫。あんな所に興味を持ってはいけない。ケダモノ共が蠢く酷い世界だ。口にだすのも憚られる」
「もう、見え透いた嘘ばっかり。もし本当にそんなだったら、ツキヨミの姫様は地上のことをもっと悪し様に仰ってた筈よ。もう永いこと経ったでしょうに、よくさぬきの翁のことを懐かしんでおられますわ」
「はあ。お前はまた、あの方のとこへ行ったのか」
「行ってはいけませんか? あの方は大変慎み深くて思慮のある方よ。後何より、お話がとても面白いのです」
「地上の話だろう。全く、あの姫様も困ったお方だ」
 綿津見は頭を抱える。昔、とある役目にて地上へ降りたツキヨミの姫という者がいた。彼女は地上にて温厚な老夫妻に拾われ、その家に厄介になったが、その内に地上に関する様々なことをその目で見て、聞いて、体験した。それは彼女にとってかけがえのないものであったのだろう。役目を終えてこうして月へと戻った今も時折地上に降りては、その話を目の前の幼い姫に語って聞かせているということであった。
「白夜見姫よ」
「はい、なんですか?」
「話を聞くのをやめろとは言わないが、程々にな」
「嫌です」
「あのな、白夜見よ」
「話は悪いものでも、穢れたものでない筈よ。それでも駄目だと言うのでしたら、理由を仰ってくださいな。どうしてですか、お父様?」
「話というのは水のようなものだ。心身を清浄に保つために水を体内に取り込むのは確かに悪いことではないだろう。しかしだな、水というものは適量でなければならない。度を越した摂取は心身に異常を来してしまう。だからこそ、今のように頻繁に話を聞きに行くのはお止めなさいということだ」
「ふーん、なるほど」
「分かってくれたかね」
 そう聞くと、姫は無邪気な笑みを振りまいて言った。
「それなら、私は適量を保ってお話を聞いているわ。だって、お水は毎日体の中に取り入れるものでしょう? 水とお話が同じようなものだと言うのでしたら、私がツキヨミの姫様からお聞きする頻度は頻繁ではないわ。むしろ、足りないくらい」
「いや、それは」
 揚げ足を取られてしまった。何故自分は水に例えてしまったのだろう、と後悔しながら綿津見はツキヨミの姫に釘を刺しておこうと心に誓った。
 姫は空に人口の月と共に浮かんで青く光る星を見上げる。
「地上。ええ、面白そうね。書物とお話の知識でしかないけれど、停滞したここにはないものが一杯あってまるで極彩色。いつか、行ってみたいものね」
「姫よ。あまり滅多なことを言わないでおくれ。後、これ以上この爺を困らせないでおくれ」
「嫌よ。でも、今夜はちょっと言い過ぎたわ。だから、大人しくしています」
 そう言うと、とたとたと小走りに行ってしまった。
「やれやれ、本当に困った子だ」
 愛娘の走り去る様子を愛おしそうに見送っていた綿津見はしかし、困ったように呟いた。