ロストミソロジー 十章:ムーンチャイルド

 昔、ある男がとある用にて月から地上のとある街へと降り立ったという。当初は用が終わったらすぐに帰るつもりであったが、男は物見遊山のつもりで名所と言われていた山へと登ることにした。そこは女性でも登ることが容易いくらいなだらかな山で男は特に難もなく登っていった。そして男が中腹を越えて頂上近くに至った時、ふと脇を見やるとそこには思わず息を呑むような一本桜が咲いている場所があったのだ。それに心を奪われた男は一旦頂上へと登る足を止め、そちらの方へ向かうことにした。その場所へとたどり着くと、気持ちが昂っていた男は頂上へたどり着いたら飲もうと考えていた酒をそこで少し飲むことにした。さて、男が見事な桜に感心していると、おや、何やら女の声がするではないか。耳を澄ましてそれを聞いてみると、どうやらそれは自分に対して向けられているものだということが分かった。
「もし、そこの御方。どうかこの花は見なかったことにしてくれないでしょうか?」
 男はその懇願に何故かと問うと、女はこう言ったという。
「ここは私のとっておきの場所です。ですから、不用意に噂が広まって人が群がり、手垢にまみれてほしくなどないのです」
 そうか、それは悪かった。男は素直に謝ったが、そこで一つの好奇心が浮かんだ。
「約束しよう。この花のことは誰にも言わない。その代わりといっては何だが、君の姿を見せてくれないだろうか?」
「それは、えっと、何故でしょうか?」
「それと言うほどの理由はございません。ただ貴方の声に興味が惹かれ、是非そのお姿をお目にかけとうなったからです。駄目、でしょうか?」
「いいえ。よろしい、ですが」
 すると、木の枝の一部分がゆさゆさと揺れた。男が上を見てみると、そこからやおら人が降りて来たのだ。
 男は降りてきた人を見て思わず息を呑んだ。それはまさに太陽の女神かと見紛う程の佇まいをした女だったからだ。
「あの、どうされましたか」
 女は困惑した。それもその筈、見知らぬ男がぼーっと呆けたような顔で彼女を見ていたのだから。
「いや、何でもありません。その、ですね。余りにも綺麗だったので、つい」
「ま、お上手ですこと」
 それから二人は他愛のない話に花を咲かせた。誰それが狐に化かされただとか、そんな他愛のない話だ。そんな話をしている時、男はふと聞いた。
「貴方はいつもここにいるのですか」
「そうですね。いつもというわけではないですが、よくここには来ますわ」
「そうですか。それはよかった」
「それは何故でしょうか?」
「また貴方に会いたいからです。ああ、今日の語らいはそれ程までに心地良かった」
 そう言うと、女は少し照れくさそうに笑った。
「それは何よりです。私にとっても、無意義ですがとても有意義な一時でした。ええ、いつでもというわけには参りませんが、お待ちしておりますわ」
「ああ、また来ますとも」
 男はそう言うと行ってしまった。
 それから男は理由を付けて月へと帰る期間を延長し、足繁くその木の下へ通うようになった。
 そうしている内に二人は恋仲となった。ある時彼ら二人は街中へと一緒に降りてくる機会があったが、どうやらそれは大層人の目を引いたそうで、すぐに街中の噂になってしまった。
 だがそれは、やってはいけないことだったんだ。
 俗人の噂などに興味を示さぬ筈の月の民がどこからかそれを聞きつけ、すぐに地上を離れるようその男に迫ったのだそうだ。
 男はなんとかしようと努力したが、全ては水の泡。やがてその時はやって来てしまった。
 男がいつもと変わらぬ足取りで木の下へと赴くと、そこに女はいなかった。男はそれでも木の幹に体を預けて女を待っていると、木の上から声がした。
「お待ちしておりました」
「ああ、そこにいたのか。愛しい人」
「ええ。ふと、今日は初めての時のようにと思い立ちまして、木の上に登ってみました。如何でしょうか、お気に召しませんのでしたら、いつものように――」
「いや、いい。このままにしてくれ」
「はい、分かりました」
 二人はいつもの時のように語らいを始めた。今日は別れを告げねばならないのに、男は中々それを切り出せなかった。ずっとこの時間が続いてほしい、そうとさえ願った男は気が付けば、声が震えていたという。そして、女はそんな男の尋常ならざる様子に首を傾げてこう聞いた。
「どうなされました? もしかして何処かお悪いのでしょうか」
「いや、そうではない。何処かが悪いというわけではないんだ」
「そうですか、それならようございます。ですが無理はいけませんよ。私も貴方様とこうして語らうことが出来るのを大変楽しみにしておりますが、貴方に何かあってはそれどこではありませんので」
「ああ、ありがとう」
 男はそう言ったきり、黙りこくってしまう。女が不審に思っていると、男は意を決したようにこう切り出したのだ。
「私はもう、ここには来れない」
 その言葉に女は目を見開いた。しかし、その後納得したようにそっと目を閉じて口元を緩ませた。
「ええ、知っていました」
「知っていた?」
「はい。だって貴方の顔にそう書いてありましたもの」
「書いていた? ああ、そうか。書いていたのか」
「ええ。貴方がここに来てからずっと」
「なんだ、私は。既に知られていたというのに、ずっと心の内で一人悩んでいたのか。全く愚かにも程がある」
 そう言って男は自嘲気味に笑った。そうしてひとしきり笑った後、男は再び口を開いた。
「元いた場所へ戻らねばならなくなった。だから、もうここには来れないんだ」
「それは何処ですか?」
「遠い所さ。人が行こうとしても行くことが出来ない場所に私は帰らねばならない。無論、君にも、もう」
 男はそれから先が言えなかった。それを言ってしまうということは、未だあやふやにしていたその事実を自分に突きつけることになると感じたからだ。
 そうしていると、男は後ろからそっと何かに包み込まれた。咄嗟に振り向こうとしたが、男は止めた。それが何であるのか、誰であるのかに気付いたからだ。
「どうか。そのまま楽にしてくださいまし」
「ああ」
「分かっておりました。貴方がいつか私の元から離れてしまうことは。それでも、私は貴方に恋をしてしまいました。本当に、恋というものは不条理ですね。貴方とはずっと一緒にいられないと分かっていたのに、どうしてそんな人に限って恋煩いを起こしてしまうのでしょう」
「私も、同じ気持ちだ。いっそ君を一緒に連れていけたらと何度も思ったよ、いや、今だって強く思ってる」
 その時、男はあることに気付いたのだ。背中から伝わってくる女の鼓動が妙に小さく感じる。それに、何だか呼吸が少し乱れている気がする……そのことに男は不安を覚え、その可能性に行き着いてしまった。そう、今は平静を装っているが、ひょっとして女はもう、長くないんじゃないか、とね。
 女はそんな男の不安をよそに彼の手を握ってこう言った。
「お願いを、一つよろしいでしょうか?」
 珍しいことだった。女は慎ましく控えめな女性で、自分からお願いをすることなど滅多になかったからだ。
「ああ、もちろんだ」
「ありがとうございます。実はですね、あの、誠に身勝手なことなのですが、明日、ここの木の幹の中を見ていただきたいのです」
「……ああ、分かった」
「約束、ですよ」
「ああ、約束だ」
 男は身を翻して、すぐにでも女を抱き寄せたかった。何故なら、男は理解していたからだ、これが最後の逢瀬になることを。
 だが、それをしてはいけないことは分かっていた。それを見てしまっては、男は平静ではいられなくなるだろうから。
 そうして少しの時間が経った後、ふっと男は自分の背中が軽くなったのを感じた。
「さようなら、私の恋した人」
 男はそっと立ち上がると、振り返ることなくその場を後にした。
 それから翌日の出来事だ。
 男は言われた通りに一本桜の元へと赴いた。そしてその木の幹を覗き込んだんだ。
 そこには簪と、赤子がいた。
 男は瞬時に理解したよ。この赤ん坊が何者であるのかを。
 赤子は男を見ると無邪気に手を伸ばしてきた。だから男はその子を優しく抱きかかえると、そっとその頭を撫でた。
「ああ、君にそっくりだな。君の面影がある」
 男は虚空に向かってそう呟いた。
 子供は嬉しそうに手を動かしていた。どうやら、"見知らぬ筈の男が自分の親である"と分かっているかのようであった。
「それにしても気付かなかったよ。君が子供を宿していたなんて。しかし、何て意地悪な人だ。これでは、選択の余地がない、ではないか」
 男はそう言って、赤ん坊を抱いたまま咽び泣いた。
 そして、赤子は男と共に月に渡ることになったのさ。