ロストミソロジー 十章:ムーンチャイルド

「え、どういうことですか。お父様」
 唐突に告げられた別離の宣告。それを姫は、夢でも見ているかのような面持ちで聞いていた。
 タン、と庭先に設えられていた鹿威しが音を立てる。綿津見は泰然としたまま「言った通りのままだ」と答える。
「姫よ。貴方様には地上に降りて祭宮を務めていただくことになった。まだ多少の時間はある。それまでに準備を整えなさい」
「何故でしょうか? 何か、私は粗相をしてしまったのでしょうか」
 その問いかけに、綿津見は首を振る。
「いいや、お前は何も悪くはない。だが白夜見よ、少しばかり意外だ。私にとっては遺憾ながら、お前はこの話を喜ぶのではないかと思っていたが」
 確かに、何故なのだろうと白夜見は感じた。自分にとってはこの話は願ってもない機会であった。この整然としていささか退屈な月の都から混沌とした地上世界へと赴けるのだ。これは本来自分が感じていたことから鑑みれば喜ぶべきことである。なのに、何故か白夜見はそれを心の底から嬉しいことだとは思えなかった。何だか、それを聞いた途端に急に不安に襲われた。
 その様子を見ていた綿津見はふむ、と軽く息を吐いてから静かに切り出した。
「あの姫様がやったように、生まれ直しという方法も取れないことはない」
「生まれ直し?」
「ああ、一度赤子の状態に戻してあちらに馴染むまで記憶に蓋をするのだ。お前には必要ないかとは思ったが、それも検討してみよう」
「いいえ、そんなことしなくてもいいです」
 白夜見は笑みを作った。
「ええ、お父様。私嬉しいです。姫様方はよってたかって刑罰か何かのように後ろめたく仰りますわ。でも私はやはりそうは思いません。だって、テルヒメ様が仰って下さったような、素敵なことが地上には溢れているのですもの」
 それからすっと立ち上がり、部屋を後にしようとすると、それを綿津見は引き止めた。
「姫、お待ちなさい。何処へ行こうとするのだ」
「もちろん、地上へと降りる準備を。お話はそれだけなのでしょう? でしたら、もう私がここにいる理由はないかと思います」
「あ、こら」
 綿津見が制止するのも聞かず、白夜見はそこを飛び出していった。
 やがて男は制止するのを諦め、行き場を失った手をそっと膝の上に戻した。
「今日くらい、好きにさせようではないか」
 俯き、右手で頭を抱えながら静かに嗚咽した。

 姫は自分の部屋を通り過ぎ、屋敷を出て、街の中へと出た。
 同年代のいない彼女にとっての数少ない話し相手は、テルヒメであった。彼女はいつも話を聞かせてくれ、自分の言葉に耳を傾けてくれた。
 そんな彼女にも話したくないことがあった。多分、語れば優しく聞いてくれるだろう、優しく窘めてくれるであろう。だけど、たとえ受け入れてくれるとしてもとてもそんな気分にはなれないことがある。今も、その気分である。
 だから彼女の屋敷には向かわなかった。白夜見は駆け続けた。見事な瓦葺きの立ち並ぶ建物の脇を通り過ぎ、灯りの元に集う人々の喧騒には目もくれず、石畳の階段を登り、朱色の橋を渡る。
 こんな時、いつも行く所がある。それは都中心部の近くにある小高い丘の上。そこにはいつものように小じんまりとした桜がそよそよと風に揺れていた。姫はいつものようにその木の前にそっと腰を下ろす。
「今日はどうしたのかな?」
 何処からか声がした。聞くものに安心感を与える、重低音の優しい男の声。白夜見はその声に応える。
「あのね。私、地上に行くことになったんだ」
「それはまた急な話だ。一体それはどうしてかな」
「うん。ちょっとね、大事なお役目を授かってしまったからなの」
「ふむ、お役目、とな。こんな子に頼まなければならないとは、万全に見えた月の都にも綻びが見え始めたというわけか」
「そんなこと言わないの。お父様達は間違ってはいないわ。いつだって一番適切な答えを導き出す。今回もそうよ。ええ、分かってるの。私も私が適任だと、自分でもそう思うわ」
「しかし、君はあまり嬉しそうにないな。本で得た知識も、何処ぞの姫様から聞いた地上のことも活き活きと話していた君らしくない」
「ええ、ほんとよね。論理的に考えて私が嬉しくない筈がないもの。でも何でかしら、今は不安な気持ちの方が大きいわ。八割、九割はそんな気持ちで一杯。おかしいわよね。これじゃ、私がホントは地上のことなんかこれっぽっちも好きじゃないと辻褄が合わないわ」
「そういうこともある。何故なら、心が論理的なものではないからな。いや、実は私達の到達していない所で論理的な営みをしているのかもしれないが、しかし、それにしても心というものは不可解なものだ。だから、君が矛盾と感じているものは何ら可笑しなものではない」
「そんなものかしら」
「そんなものさ。それより何だ、私もかつて地上にいたことがあるが、別段恐ろしい所でもないさ。君ほどの者なら、あちらでの生活もすぐにものにしてみせるだろう。恐らく、君の不安はただ単純に、未知の体験への恐怖、実態のない不安だ。そういうものは決まって杞憂であると相場が決まっている」
「ふふ、何それ。慰めてくれてるのかしら」
「ふむ、全く。気を遣ってみたらこの態度だ。つくづく可愛くないな、このお姫様は」
 何処からかともなく風が吹き荒れる。それはこの沈黙の間を埋めるように桜の木を揺らし静かな音を鳴らした。
「あのね。私、もうここには来れないわ」
「ああ、そうだろうな」
「私、ね。ここの生活って退屈だと思ってた。皆が考えて考えた結果なのだろうけど、とおってもちゃんとしすぎてて、なんだか、遊びにくい所なの。だから、ツキヨミの姫様のお話はとっても刺激的だったし、私もそんな所に行けるなら、こんな退屈な所捨てて行ってみたいとも思ったわ」
 少女は俯き、顔を手で多い隠し、体を小刻みに揺らした。
「でも、やだよ。お父様とも別れたくない。テルヒメとだってもう会えなくなる。ここで貴方と話をすることだって出来なくなる。そんなの嫌。どうしよう、私。もうすぐ、ここにいられなくなっちゃう」
 返答はない。ただ、今にも泣き出しそうな少女の声のみが辺りを満たす。
 ふと、少女の上に何かが覆い被さった。
「どうかそのまま手で顔を覆ってられますように。私の愛しい姫」
「え」
 強く抱き止められた。声しか交わしたことのない相手。だけど、その鼓動はどこか懐かしく、前から知っていたかのような感覚があった。
「我慢なんてしなくていい。泣きたかったら、泣けばいいんだ」
 それはまるで堰を切るための魔法の呪文であった。少女から少しずつむせび泣く声が漏れていき、やがてそれは見た目相応の少女らしい泣き声へと変わっていった。
 そうしてひとしきり泣いた後、もう涙も出なくなった少女はゆっくりと口を開いた。
「もう、開けてもいい?」
「ああ、構わないとも」
「うん。それじゃあ、開けるね」
 そう言うと、少女は顔を覆っていた手を離し、ゆっくりと前を見た。
 そこには只美しい桜の木があった。後ろを振り返っても彼女を包み込んでいた筈の人影は何処にもない。只、目の前には桜の木が佇んでいた。
「ねえ、貴方は何で私に姿を見せてはくれないのかしら」
「それはね、私は見られてしまったら泡になってしまうからだ」
「嘘つき。それじゃどこかで聞いた人魚姫だわ。第一、貴方は女じゃないでしょ」
「はは。ごもっともだ」
「もういい。貴方の姿なんて興味ないもの。そうやっていつまでも一人ぼっちでいればいいんだわ」
 白夜見姫はぷいとそっぽを向く。ふと、床に何かが落ちているのが目についた。それをそっと拾い上げる。
 それは木製の櫛であった。桜の花びらがあしらわれたくらいのこれと言った特徴のない櫛。
「貴方、何か落とし物をしましてよ」
 夜見姫がそれを差し出すと、男は「ああ、なんだって何を落としたって」と少し慌てたような口調で尋ねる。
「綺麗な櫛、これ貴方のじゃないかしら?」
「櫛だと」
 男は数秒の沈黙の後、再び元の落ち着いた声で口を開いた。
「ああ、確かに私のものだ」
「やっぱりそうなのね。じゃあお返しするわ。でも変なの。この櫛ってとっても可愛らしいのに、貴方って意外と乙女な趣味してるのね」
「余計なお世話だ」
「あ、そっか。貴方は私に姿を見せられないのでしたっけ。じゃあ木の下にでも置いておくわ」
「……いや、姫」
「はい?」
「その櫛だが、それは君にあげよう。私からの餞別だ。受け取ってくれ給え」
「いいのかしら」
「ああ、構わないとも。どうせ私は使っていないのだし、君が持っていた方がよっぽどよさそうだ」
「そう。それなら遠慮なくいただくわ」
「大事にしてやってくれ」
「ええもちろん。ありがとう、恥ずかしがり屋さん」
「一言余計だ。はあ、やれやれ。本当に困った子だ。だが元気になってよかったよ。その調子なら、地上に行っても問題ないだろう」
「なんか癪だけど、ありがとう」
「どういたしまして」
「それにしても不思議ね。結局貴方のことを一度も見たことはなかったけれど、貴方と初めて言葉を交わした時から貴方のこと、とても懐かしく感じてしまう。ひょっとしてお父様ってことはないわよね。声が違うもの」
「ああ、そうだな」
 それから少女は少しの間俯いた後、ゆっくりと立ち上がりその別れの言葉を紡ぎ出した。
「私、そろそろ行かなくちゃ」
「そうか」
「今までありがとう。貴方とお話出来てとても楽しかったですわ」
「ああ、私もだ。さようなら、お姫様」
「さようなら、お父さん」
「――っ!?」
 踵を返して桜の木に背を向け、少女は走り去った。
「全く。気付いていたのか」
 男は苦笑する。
「ああ大丈夫さ。地上は君のもう一つの故郷でもある。我が愛し子よ。私が言うのもおかしな話だが、どうか、その道筋に多幸のあらんことを」
 それから男は桜の木を見上げる。
「私の愛した人よ。君に託されながら、こんな結果になってしまってすまない。だがどうか、あの子を守ってやってくれ」