異界手帖 六章:思い出

「結。おい、大丈夫か?」
 見知らぬ男が心配そうにして駆け寄ってくる。ここは、何処かの公園だろうか? よくは分からないが、太は夢を見ているのだと、すぐに悟った。そして自分は今、結とよばれた少女の中に入っている。
「へーきよこれくらい」
 少女は強気に返答するが、その目は泪で滲んでいた。
「平気なもんか。泣いてるじゃねえか」
「泣いてないもん」
「全く、気丈なお姫様だ」
 男はそう言いつつ少女を背負い、ゆっくりと歩き出す。
「だから、へーきだって」
「無理すんな。足擦りむいてんだ。大人しく背負われろよ」
「む、ありがとうなんて言わないわ」
 少女はそっぽを向いてしまった。しかし、彼女の嬉しい気持ちは痛いほど伝わってきた。本当は"ありがとう"と伝えたいのに、プライドが邪魔をして伝えられない。すごくもどかしい。
「素直じゃねえなあ。全く、誰に似ちまったんだ」
「そんなの、お父さんに決まってるでしょ」
 ぐずりながら、少女は男に訴えた。
「いやあ、俺はそんなに捻くれてないさ」
「捻くれてますよ~だ」
 少女はべーと舌を出す。
「こいつ、言ってくれるじゃねえか」
「ねえ、お父さん」
「なんだ?」
「何かお話を聞かせてほしい」
「ふ、お前もまだ子供だな」
「いいから、聞かせて!」
「はいはい、お姫様の頼みとあっちゃ断れねえな。そうだな、あれにしよう」
 そう言って、男は一つ一つを思い出すように少女に語り始めた。

 ここではないどこかの世界、とある騎士がオリーブ園から女の子の赤ん坊を拾いましたとさ。その女の子は何処から来たのかも分かりませんでしたが、騎士に大事に育てられ、女の子は自分の素性なんてどうでもいいくらい幸せでした。オリヴィアと呼ばれたそんな女の子も成長してそれはそれは美しい娘になり、多くの貴公子からも求婚されるようになりましたが、オリヴィアはそれを全て断ってしまいました。騎士は訳を問いましたがオリヴィアは答えてくれません。やがてオリヴィアはしきりに泣くようになりました。騎士は不安を覚えて、やはりオリヴィアに訳を聞きました。すると、オリヴィアは答えるのです。『私は自分の出生を思い出してしまいました。もう、ここにはいられないのです』と。騎士は大変驚き、何とかしてオリヴィアを引き留めようとしたのですが、結局、彼女は姿を消してしまいました。騎士は悲しみに暮れていましたが、ふと、オリヴィアがかつていた部屋に置き手紙が書いてありました。置き手紙には、こう書いてありました
 
 今までありがとう。
 感謝しています。ありがとう。ありがとう。お父さんのお陰で、私は毎日幸せでした。どうか、私のような薄情な女のことは忘れて、幸せに暮らしてください
 
 ありがとう、お父さん
                                            オリヴィアより

「騎士は手紙が湿っていることに気付きました。きっと、オリヴィアは泪を流しながら書いていたのでしょう。騎士はその手紙を抱きしめ、いつまでもオリヴィアの名前を呼び続けるのでした……」
 男は少女の方を振り向く。
「どうだ、あ、いって」
 少女は男の頬を思い切りつねる。
「なんでそんな悲しいお話をするの」
「仕方ないだろ。話のストックがなかったんだから」
「別れて終わりだなんて、嫌だ」
「お話はみんなハッピーエンドとは限らないからな」
「お父さん」
「ん、何だ」
「私はいなくならないわ」
「あ、ああ。勝手にいなくならないでくれよ」
「うん。ありがとう、お父さん」
 誰かの記憶、それとも只の夢? 少女の気持ちが伝わってくる。可能ならば、いつまでもこうしていたい。失いたくないもの。
 太はそこで目を覚ました。外は夜が明けようとしている頃合いである。ふと、太は自分の頬に触れた。
 そこに一筋の雫の跡が残っているのが分かった。