鬼姫奇譚 一章:鬼惑い

「はあ、さてどうしたもんかな」
 喧騒真っ只中の大学の食堂。あちこちから賑わいの声が聞こえてくるが、多種多様に混ざり合ったそれはもはや人の声ではなく一種の環境音である。
 そのような混沌の中、天野は一人唸り、せっかく並んでまで注文した定食にも手を付けずにいた。
「結局進展なし、か。世の中厳しいもんだ」
「随分としかめっ面だな。なにゆえそんなに不景気な顔をするのかね?」
「うわあビックリしたっ!」
 天野は慌てて振り向く。背後にいたのは十代前半かと見紛うほどの顔立ちも背丈も幼い女性、新宮智映美であった。薄手のコートを羽織った新宮は天野の様子を見て満足そうな笑みを浮かべている。
「新宮か。全く、いきなり耳元でしゃべりかけるんじゃない」
「君があまりに不用心だったからね。ついからかってみたかったのさ」
 そら、吸い物が冷めてしまうぞ。新宮が言っても天野は一向に手をつけないため、終いには「君は食堂への嫌がらせにここに来たのか」などと毒づかれてしまった。
「津田会長がいよいよ隠居をするらしいな」
 新宮が切り出すが、天野は怪訝な顔をする。
「え? ああ、誰だったかな」
「津田家のご当主様だ。ほれ、旧財閥系の」
「ああ、思い出した。あの妖怪のような男か」
「全く、君はニュースを見ないのかね。仮にも講師の職に付いているのなら、もう少しくらいは世の中の動きにアンテナを張り給え」
「そうしたいのは山々だが、生憎自分のことで精一杯なんだよ。ほらあれだ、衣食足りて礼節を知るという言うじゃないか」
「衣食は足りているではないか。君のは只の怠惰ではないかね」
「へいへい。どうせ俺は怠け者ですよ」
「子供か君は」
 そうやってすぐに不貞腐れるからチャンスを逃してしまうんだ。新宮は半ば呆れ気味に言った。
「で、例の件は、どうだった?」
「どうしたもこうしたもないさ。結局何の収穫もなしだ。肝心なことを何も教えてくれなかった」
「ほう、珍しいな。彼女は客人を邪険に扱うような御仁ではないのだが」
「別にぞんざいな扱いを受けたわけじゃないさ。ただ――」
 天野は先日の会話を思い出す。
 千方院家。
 一般には知られていないが、古来より朝廷に仕えてきた一族だということである。
 かつて人は闇を恐れていた。そこには得たいの知れないもの、自分たちの常識では計り知れないもの達が潜んでいたからだ。そして、闇の具現である魑魅魍魎の跋扈するかつての都にあって、その力を持って魑魅魍魎の類から朝廷を守護してきた者達の一つに千方院家がいた。彼らは帝からの信頼も厚く、帝への拝謁も許されるほどであった。
 ただ、千方院家には秘密があった。
 それは、一族の者ことごとくが俗に鬼と呼ばれる者であったということだ。
 彼らの間には基本的に血縁関係はない。経緯はどうあれ、鬼といういささか特殊な境遇に置かれた者達がその寄り合い所として擬制的に設けたものが千方院家である。彼らは強い結束で互いに助けあい、困難に立ち向かいながら時を過ごしてきた。
 しかし、明治期に移行するに伴って次第に妖異の脅威が薄れるようになり、召し抱える意味の薄れた彼らはお役御免となってしまう。それは今までそうして生きてきた彼らにとっては青天の霹靂であり、それ以来、彼らの結束に揺らぎが生じ始め、あるいは離散するものが出るようになった。
 いわゆる没落した家です、当主である八重千代は事も無げにそう語った。
「この件について、あまり人を巻き込みたくないのかもしれない」
 鬼惑いについては私がなんとかいたします。それに、その鬼が誰かに危害を加えることもありませんから、ご心配されずともよろしいですよ、天野は何度もその言葉を反芻させる。
「そうか。何にせよ彼女が元気そうで何よりだ。そういう意味では、私にとっては収穫アリかな」
「おいおい、お前」
「そう疑念の目を向けるな。実際、彼女が何か知っているかもという話は嘘ではなかっただろう。まあ私としては、ついでに彼女の様子を確認してもらいたかったわけだ」
「はあ、確かにな」
「私は異界騒ぎだの何だのについてはノータッチだ。後はどうするか、君が決め給え」
 そう言って、新宮は颯爽と行ってしまった。