鬼姫奇譚 六章:八津鏡

「……この匂い」
 凝花舎と呼ばれる建物。その板張りの廊下にほのかに香りが漂う。初春の匂い。
「どこかに植えてるのかしら」
 八重千代は香りの漂ってくる方へと歩を進める。
「この障子の向こうから。不思議、閉じているのに。隙間から漏れているのかしら」
 閉ざされていた障子を開ける。
「まあ」
 開けた先の空間は、部屋ではなく、広大な庭であった。そして、その空間の主であるかの如く、一本の巨木が中心に鎮座していた。
「これね、さっきから匂いを漂わせているのは。なんて芳しい」
 花が爛々と咲き誇っているその樹に近づき、そっと触れようとする。
「……これは」
 違和感を感じた。ここにはあるのは作り物だ。これは、"今この場には存在しない。"
「思いの外鈍感なようですね。やはり日和ってすっかり感覚が鈍ってしまわれたか」
「なるほど、やってくれましたね」
 周囲の景色が紙片の舞うように剥がれていく。そしてそこにあった巨木もやがて同じ様に剥がれていった。
 剥がれた先に現れたのは石畳の敷き詰められた宮殿のような内観。そして居並ぶ十数人の人々。そこには、聡文を始め八重千代にとって見覚えのある顔ぶれが立っていた。
「夏羽、それに大岳まで」
「ご機嫌麗しゅう。あれだけ頑なに拒んでいたのに、結局ここまで来たのですね。やはり人里では生きづらかったと見える」
 聡文のその言葉に八重千代は首を横に振る。
「貴方の招きに応じたわけではありません。そうではなく、貴方を止めに来ました」
「止める? 一体何を言っているのやら」
「とぼけないで。貴方が我ら千方院家の至宝を持ちだしたことは分かっています」
「……ふん」
「いい子だから返しなさい。あれは、外に出してはいけないものです。用いれば必ず多くの犠牲者を出しましょう。貴方はそれでもなお八津鏡を使おうとするつもり?」
「それは部外者の貴方が心配すべきことではない」
「貴方はそこまでして、一体何をしようと言うのですか?」
「それは先日お話した通りです」
「報復、ですか。しかし貴方達は戦いに負けた。何故今更そんなことを考えるのです」
「今更? 八重千代様、貴方は勘違いしておられるようだ。今更、ではない。やっとです」
「やっと?」
「もう百年以上前の抗争、貴方も知っているだろう。あれはな、私達が仕掛けたものではない。都合よく私達を闇に葬るために仕組まれたものだ」
「それは、どういうことですか?」
「決まっている、弓司庁だ。いや正確に言うと、かつて弓司局に在籍していた者。その者は私達が仕掛けたように見せかけたが、実際に火種を付けたのはその男だ」
「ですが、その話が真実だとして、何故そんなことをする必要があるのです。貴方達を陥れたところで、その人には何も益はないでしょう」
「益はない? そんなことはないさ。何故なら、そうすることで将来起こる可能性のある災害の芽を摘むことが出来る」
「災害の芽?」
 八重千代は怪訝な顔をする。
「ああ、そうさ。明治に起きた大きな変革。それはこれまでの倫理観も価値観も覆し、あらゆるものを混乱に陥れた。やがて混乱は収まり、戸惑っていた人々も新しい環境に馴染み始めたが、上手く適応出来ずにあぶれた者達もいた。それは武士だ。さて、彼らの一部はどうしたのだったかな?」
「それは反乱を起こし――」
 八重千代がハッとして目を見張った。もし武士のように行き詰まるようなことがあった場合、自分達は果たしてどうしていたのであろうか。
 悩むまでもなく、"そこ"に行きつく可能性は十二分に考えられた。
「まさか」
「そうだ、弓司庁のその者は私達が力を蓄えて反乱を起こすことを恐れたのだ。だからこそ私達を罠にはめ、勢力を拡大して厄介な存在になってしまう前に、さっさとその芽をつぶそうとした。歯がゆいことだが、奴の目論見通り、私達は無様に破れ、落ち延びた。だが私達が仙涯郷にたどり着いたのは、誤算であっただろう。こうして力を蓄える期間が与えられたのだから」
「愚かな。折角安住の地を見つけたというのに、何故それを無下にするようなことを」
「安住の地だと。ふざけるなよ、私は、私達はあの男だけは許さぬ」
「どうしてそこまで」
「私達を罠に嵌めた男はな、千方院秀明だよ」
「え」
 八重千代は目まいがするほどの衝撃を頭の中に感じた。彼は、千方院家の者を助けるために尽力してくれたのではなかったか。
「あれはな、千方院家を見限ったのみに飽き足らず、私達を売ったのだ」
 八重千代は少しの動揺の後、静かに目を閉じる。ああ、あの時に様子がおかしかったのはそのためだったのね、彼女は当時の同胞のことを反芻する。
「復讐など無意味だなどと嘯く連中はこの屈辱を知らない者達だ。この身につもる怨嗟を晴らしてこそ始めて前を見ることが出来る。かつての徳川の世にありし仇討ちは只野蛮に非ず、そこに意味あればこそ」
「過去の因縁は清算されなければならない、と」
「然り、千方院が主よ。それを知ってもなお、貴方は何もするつもりはない、と」
 八重千代は少しの沈黙の間沈黙する。直接見たわけではない。だが、かつての同胞達が倒れていったのは紛れもない事実。自分とて、怒りを感じなかったわけではない。どうしようもない現実にまるで子供のように泣いてしまったこともあった。思わず呪詛を吐きたくなったことだって何度もある。
 ですが。
 それでもやっぱり、皆の帰るべき場所を失うわけにはいかないから。
 八重千代は静かに口を開いた。
「……無論です。もう過ぎたことなのですから。聡文、いえ、大岳も夏羽ももう馬鹿なことはおやめなさい。理不尽だと憤る気持ちは分かります。ですがそんなこと、この世界にはいくらでも」
「やはり、貴方はそうなのですね」
 聡文は項垂れ、すぐに顔を上げる。
「八重千代様。やめろやめろと、そんなことをいくら言っても無駄だと分かっているでしょう。止めたいのでしたら、力ずくで止めてみせてください」
「そう、ですか。ならば力ずくで止めるしかありませんね。残念です、聡文」
「嘆いている暇がありましたら、構えたら如何か」
「えっ!?」
 八重千代は目を見開く。
 夏羽が突如八重千代の前へ立ちはだかり、拳を繰り出してきたのである。
「ふん!」
 狙い過たず、八重千代目掛けて拳は吸い込まれていった。八重千代は手をかざしてそれを受け止める。周囲には二人を中心に豪風が起き、地面の砂利や埃を巻き上げた。
「受け止めたか。だが、夏羽さんの豪腕を正面から受け取るとは慢心にも程がある」
 聡文は呟くも、二人が膠着状態のまま、動きがないことに不審を抱く。
「どうした?」
「……ぐ、うう」
 夏羽は顔を歪め、拳を八重千代に突き出したままその巨体を小刻みに震わせる。
 赤くなった顔には大粒の汗が頬を伝っていた。
「どうしました? 女だからと加減はしなくてもいいのですよ、夏羽」
「か、げんなど」
 夏羽の拳は八重千代のか細い手に止められていた。彼女の手に掴まれたその拳は引くことも出来ずにそこに硬直している。
「その通りです。遠慮をする必要はない。なんだったら」
「うおおおおおおお」
 夏羽が唸り声を上げて蹲る。
「なっ!?」
 大きな物体が持ち上げられ、小気味よく風を切って石柱にぶつかる音がした。衝撃で石柱は根本から折れ、粉塵が舞い上がる。
 その下には、夏羽がうつ伏せに倒れていた。体をびくりともさせず、起き上がる気配は一向にない。
「安心なさい。気絶しているだけですから。ですが随分と見くびられたものですね。この千方院八重千代、百戦錬磨と豪語はせざれど、伊達に都の守護を務めてきたわけではありませんよ」
「くう」
 八重千代の鋭い視線に思わず聡文はたじろぐ。
「そろそろ自分で来たらどうですか。それとも、臆病風を吹かせてまた愛しい同胞に怪我をさせるつもり?」
「勝手なことをっ!」
「さ、聡文君」
 大岳が止めようとする。
「大岳さん、止めないでください。やはり、彼女とは決着を付けなければならない」
「落ち着け。彼が、戻ってきた」
 その言葉に興奮していた聡文は途端に冷静になる。
「ぐっ、なるほど。そうでしたか」
 八重千代の方に顔を向ける。
「どうしましたコソコソと。逃げる算段でもしていましたか? それとも」
「逃げる算段などしていないさ。それより、今度こそ自分の身の心配をした方がいい」
「何を言って――」
 背後からの悪寒を感じた。
 八重千代は身をひるがえし刃をすんでのところで躱した。
「惜しかった、といったところか」
「……どうして、貴方が」
 八重千代は我が目を疑う。
「すまないね、我が朋友よ」
 羽白は体勢を整えながら静かに告げた。
「何故戻ってこなかったかは今はいいでしょう。それより、一体どうして貴方が?」
 八重千代は眉根を寄せて羽白に問いかける。
「貴方様に語るほどのものではありません。そして、語ったところで貴方の同意を得ることなど万に一もありません。決して、一つとして」
「羽白、貴方」
「悠長に邪推している場合ですか。敵は前方に後方に展開しております」
「ええ。確かに貴方の言うとおりのようですね。特に貴方が相手では、少々分が悪い。時間も押していることですし」
 八重千代を金色の火が覆う。
 まるで身にまとっているかの如きその焔は鮮やかに、そして活発に躍動し始める。
 頭に玉のような角の生えた八重千代は、薙刀を手にして羽白に刃を向ける。
「此れより先は、一気呵成に攻め立てましょうや」
「またその姿が拝めるとは。ああやはり可憐で、美しい」