ロストミソロジー 四章:影、暗雲

 弓納は中学進学の折、親元を離れて市内にいる両親の知人の家に下宿することになった。下宿するといっても、これといって家賃等を払っているわけではない。知人は両親とはとても気のしれた仲であり、その縁でこちらに住まわせてもらっているのだが、「可愛い孫娘みたいな子を住ませるのに、何故お金を貰わねばならないのでしょうか」と両親が申し出た家賃等の支払いの一切を突っぱねてしまった。
 小泉というおっとりとしたその知人の老婆は、優に齢六十は軽く超えていたが、その軽やかな足取り、体力はさながら20代の若者のそれであり、ひょっとして魔女なのではないかと巷で実しやかに噂されていた。
「小梅ちゃん、お帰りなさい」
 木造の玄関の引き戸をガラガラと開く音に気付き、小泉は言った。
「ただいま」
 慣れた足取りで玄関から中に入ってきた小梅の後ろには、見慣れぬ髪の長い女の子が左手に鞄を提げたまま物珍しそうに付いてきていた。
「こんにちは」
「あら、お友達かい?」
「うん」
「さやと言います。あの、よろしくお願いします!」
 そうさやは言って勢い良く頭を下げた。
「あらあら、元気な子ね」
「えへへ」
「ねえおばあちゃん。ちょっと唐突なんだけど、今夜さやをここに泊めてもいいかな」
「ええ、構わないわよ。でも着替えとかは大丈夫かしら?」
「それなら大丈夫です。鞄の中に諸々必要なものは持ってきています」
「あらあら、随分と用意周到なこと。もし私が断ったらどうするつもりだったのかしら?」
「えっと、それは」
 さやは老婆から視線を逸して目を泳がせる。確かに、もし断られることになったらどうすればよかったんだろう。あれだけ泊まるつもりで神社を出たのに、結局その日の内に帰ってくるのは、何だか恥をかいた気分になる気がする。
「もうおばあちゃん、意地悪言わないで」
 見かねて、弓納はさやを援護した。
「ふふ、冗談よ冗談。さやちゃんごめんなさいね。こんな歳になるとやることも少なくなってしまって、ついこういうことに精が出ちゃうの」
 そう言った老婆はしかし、悪戯な笑みをその顔に浮かべていた。

 弓納の下宿先、つまり小泉の家はいわゆる町家と呼ばれるものであった。近代以前に建築されたらしいこの家は、朽ち駆け寸前だったところを数十年前にこの地を訪れた小泉に買われ、リフォームを経て再生した。表面的な箇所は日本の伝統様式を維持していたが、人に見せないような所は近代技術の恩恵に預かった作りをしており、それ故その古めかしさに反して中は意外と快適であった。
 弓納の自室は町家の二階、通りに面した部屋にあり、若干赤みを帯びている招き猫や達磨が置かれている窓からはちらほらと道を行き交う人々を眺めることが出来た。部屋の一角に置かれている文机には教科書や参考書のようなものがマガジンラックに収納されており、他に朱い色のキャンバスノート程の大きさのノートパソコンが文机の上に置かれていた。
 文机の隣には本棚が置かれており、古今東西の様々な小説や評論が収まっている他、肩身が狭いように漫画本が収まっていた。
 他にクローゼットや押入れがある以外は、中央に小さなテーブルが置いてあるくらいであった。
「期待させちゃってたらごめんね。ご覧の通り女の子らしいものほとんどないの」
「まさか、そんなの気にしてないよ。あ、これは」
 さやはテーブルに無造作に置いてあった本を手に取る。それは落語に関する本のようであった。
「ああ、それ。この前知り合いの人に落語聞かせてもらったら面白くて買っちゃったやつ」
「へえ、そうなんだ」
「でも本で読んだらあまり面白くなかった」
「それはまたどうして?」
「落語って結局、その人の語りがあるから面白いみたい。素人意見なんだけどね、私はそう感じた。読むんじゃなくて、聴くのがいい」
「ほお。それでは是非、小梅による語りをお聞かせ願えたいところ」
 さやがニヤリとして言うと、弓納は慌てて手を振った。
「いやいや、セリフ一から一まで覚えてないし、無理だって」
「あ、そっか。語るなら全部覚えとかないと、だね。そりゃきついか」
 あはは、とさやは朗らかに笑うと、何処がおかしいのかも分からないままつられて弓納も笑ってしまった。
「ねえ小梅」
「ん、何?」
「落語は無理でも、貴方のことを聞かせてくれないかな」
「私のこと?」
「うん、貴方は私と違って記憶がある。貴方がどういった子で、今までどんなことがあったとか、今はどんな風だとか、それを聞かせてほしいの」
「うーん、あまり自分のことを語るのは得意じゃないけど」
「あまり話したくないなら無理にしなくてもいいよ。思い出したくないこととかあるなら尚更ね」
「ううん、いいよ」