ロストミソロジー 六章:炎の巨人

「ちょっとおじさん。あんまりきつく縛らないでよ」
 グラウンドの隅で少女は喚いた。その図々しい態度に、天野は半分呆れ返る。
「あんた、本当に図太い神経してんな」
「えっへん、それが私の取り柄ですから」
 少女、勘解由小路は得意げに嘯く。彼女はフミツカミによって後ろ手に縛られていたが、そんなことは意にも介さずに悠然と座っていた。
「それで私をどうするつもり。別に殺すってわけじゃあなさそうだし」
「そりゃあ決まっている。聞きたいことは一つだ。何故あの時、俺を襲った」
「ああ、なるほど。そのことか」
 勘解由小路は一人納得したように目を閉じる。
「簡単なことだよ。貴方があの子、さやを使って何か良からぬことでも企んでるんじゃないかって思ったからさ」
「ふん、意味が分からないな。何か良からぬことってのは具体的にはどんなことだ」
「例えば、国家転覆とか」
 一瞬、静寂が辺りを包み込んだ。そして、天野は堪えきれなくなってプッと吹き出した。
「何だそれ、嬢ちゃん。何の冗談だ、そんなんじゃウケねえぞ」
「ウケてるじゃん。ていうか何それ、そんなに笑うことかしら。こっちは大真面目なんだけど」
「馬鹿な。あり得ねえ。何で俺がそんな」
「ねえ、勘解由小路さん。それ、私興味あるわ。教えてくれないかしら」
「結ちゃん、あのな」
「そうね。子供の頼みとあっちゃ断れない。私が天野幸彦について知ってること洗いざらい話しましょう」

 それはもう、気の遠くなるような昔の出来事。まだこの国が成立するよりも前の話、かな。かつて、とある地域に二人の兄弟によって治められていた国があった。彼らはお互いに仲が良く、彼らの治めていた国は豊かで満ち足りていて、地上の楽土であった。
 だけど、そんな満ち足りた時間はいつまでも続かなかった。楽土であることはいざ知らず、そこに留まってただただ豊かに暮らすなどということは彼らの祖たる天の神々が許さなかった。
 胡乱な者共の蠢く地上を治め、秩序を以て地上の王となれ。それが、神々の告げた命であった。
 だからこそ彼らは十分な豊かさを誇っているというのに、隣国への侵略、ひいては遠征の準備を着々と進めていた。
 そんなある時、首長の一人である兄は自分達の郷を抜けて外へ出かけていった。別段、彼が外へ出かけていくことは何度もあった。一体何をしに行っているのかは知らなかったが、おおよそ蛮族共の動向でも窺いに行っているのであろう、そう人々は思っていた。この国は豊かであるが故に、隣国による侵略の噂は絶えなかった。それでも今まで侵略されなかったのは、ひとえに半人半神と言われている兄弟王の存在あればこそであった。そう、だからこそ、兄が単独で外に出ることに誰も異を唱える者はいなかったし、今まで弟も特に気にかけるようなことはしなかった。
 だが、そんな弟にある者が告げた。
 兄が何をしているのか、気にはならないか?
 何ということはない些細な一言。だがそれは、弟の心をざわつかせた。
 もし弟が真実欠片たりとも兄を疑っていなかったなら、そんな心の動きは起きなかったであろう。弟の心がざわついたのは、ただ兄に対する芥ほどの疑念がその心に染み付いていたからに他ならない。
 弟は国のことを大臣達に任せて兄の後を追っていった。弟は自分に言い聞かせた。これは自分の疑念を果たすための行為だ、何も後ろめたいことなどない、と。
 兄は大方の予想通り蛮族共の治める周辺国へと向かっていた。弟はそのまま彼の後を追う。
 兄は深く深く国の中へ分け入り、そして、郷の中へ入っていった。
 弟は我が目を疑った。何故、平然と兄は奴らの郷へと入ることは出来るのか? 確かに兄は周辺諸国に対して寛容であり、争いが起きないように調整役を担っていたが。
 迂闊に郷へ入ることも出来ず、大人しく帰途についた弟は、その国に潜ませていた間者を呼び戻した際に、そのことを問い詰めた。最初ははぐらかしていた間者も、遂に口を割り、兄のことを話し始めた。兄王は、隣国の人間達と交わり、時には争いが起きないように、友好的な関係が築けるように活動している、と。
 弟はそれを認め難かったが、同時に腑に落ちることがあった。何故、隣国は一向に攻める気配すらないのか。特に、最近は北の連合国が大きな勢力を持って実質上の脅威となっているが、それすらも何か怪しい動きがあったという報告もない。
 それは、兄がこうして地道に調整をしているからではないのか。
 弟はそれに戸惑った。それはあってはいけないことだ。蛮族は道理というものを知らない。故に彼らは支配されるべき存在で、永い時間をかけて教化を行い、その穢れた血を浄化して、自分達の眷属としなければならない。それが、この地上が安寧を得るために最適な方法である。
 だが、兄の行いはそれを否定することであり、蛮族共を自分達と対等だと認めることである。そんなことは認められる訳がない、そう弟は思った。何故兄がそんな考えに至ったかは知らない。だが、話が本当であれば、それは……
 弟は自分の目で確かめるため、変装して兄の行く先へと秘かに同行するようになった。
 そして、行く先々で確かに兄は調停役ともいえるその働きぶりを示してみせた。弟はそれを見て間者の言っていることは正しかったのだと悟った。間者がこの様子を話すことを頑なに拒んだのは、ひとえに兄が言い含めていたからであり、兄は自分の知らないところで秘密裏に話を進めていたのだ。
 弟は義憤に駆られた。いや、そんな怒りは表面的なものだけであった。自分が蔑ろにされていた。そのことが弟王の誇りに大きく傷を付けた。今まで、人々から畏れとと敬意とを以て扱われてきた男。誰にも無視されず、その言葉は神言として丁重にされ、いなくてはいけない存在。この男は、その聡明も手伝ってこれまで人にぞんざいな扱いを受けたことなど一度もなかった。だが兄は、自分に一言も相談をせず、かように国を左右するようなことを独断で行っていたのである。
 蛮族と対等な友好関係を築きたい。確かに、そんな狂言を口走ったところで下の民はともかく、自分は聞く耳を持たないだろう。そんなことは弟も理解していた。だからこそ、誰にも相談をせずに独自に動いていた。
 だが、結果は徒労であっても"相談をしなかった"ということが弟にはどうしても許せなかった。何故、相談すらもしてくれないのか。ひょっとすると兄にとって、自分は厄介な存在なのではないか。
 弟の心は染みで染めつくされ、残る一点、もはやそれが染みであるといっても過言ではない程の小さな白が残されているのみであった。

 その日、兄は例のように出かけていった。弟はいつものように大臣に雑事を任せ、時間を置いて跡を追う。
 その日はいつもと向かうような場所とは明らかに異なる所へ向かっているようだった。弟がそう感じたのは、いつもは人里に繋がるようななるべくなだらかな道を選んでいた兄が、この日は人界の及ばぬ異界へと繋がるような特別険しい道を進んでいたからである。
 弟は人並み外れた身体能力を持っていたとはいえ普段から活発なほうではなく、それ故にこの行程はいささか困難を伴うものだった。しかし、兄はそんな険しい道をものともせずに突き進んでいく。
 森深い山の頂上、海を見渡せるその場所で兄は止まった。弟は気配を殺し、茂みに隠れてその様子を窺う。
 一体何が起きるのか。弟は目を凝らしてそれを見守る。
 物音がした。兄のやってきた所の反対側から、女が現れた。どうやら、それは蛮族の女らしい。二人は互いに静かに近づく。
 ……見てはいけない。
 "それを見たら"後悔する。そんなことは分かりきっている。
 しかし、眼前の光景から目を逸らすことなど出来ようもなかった。
 そして、兄と女は抱擁した。
 それは、微かに残していた純白の点を綺麗に真っ黒に染め上げた。兄はいなくなったのだ。もはや、そこにあるのは穢れた女と交わる兄に似た何か。
 許せない、許さない。 
 そうして気が付くと、弟は持っていた剣で女を刺していた。
 悪いのは兄さんだ。自分一人で勝手なことをするから。
 兄は口を引きつらせて呆然としている弟を他所に、女を抱き起こす。女は、既に息絶えていた。
 次は兄さんだ。
 弟は兄に刃を向けた。兄は女をそっと仰向けにして立ち上がり、感情の読み取れない顔で、お前は、俺が疎ましかったんだな、と言った。
 弟は心の底を抉られた。自分でも気付かなかった、気付きたくなどなかったそれを、この男は看破してしまった。
 弟は兄を尊敬していた。誇らしくも思っていた。だが、邪魔だとも思った。そうだ、自分はぞんざいな扱いを受けたことなどない。だがそれは外から見れば、の話だ。自分は常に二番煎じ。絶対に覆らないこの立場への鬱憤を彼は内に抱き続け、そして飼い太らせていった。
 その総決算がこれであった。
 兄と弟は戦った。そして、弟は戦いに勝利し、兄は女共々そこに打ち捨てられた。
 弟はその日から只一人の王として君臨し、周辺諸国を制圧していった。もはや、奴はなくなったのだ。それは、彼にとっては救いであり、同時に絶望でもあった。