ロストミソロジー 十一章:真統記の中

 屋敷の屋上に設けられた星見のための空間。板張りの床の上に屏風と畳の敷かれたそこに着物の女性が一人、振袖袴の幼い女の子が一人寄り添いながら座っている。
「ねえ。テルヒメ」
「どうしました、白夜見」
「テルヒメはどうしてこちらに戻ってらしたのでしょうか? 今だって時折地上へと足を運んでおられるのなら、いっそのことそのままあちらに住まわれてもよろしかったのではないかしら」
 地上での土産話を一通り聞き終わった白夜見は、かねてより胸中にあった疑問をぶつけた。彼女はこちらに帰る折、地上で恩になった人々との別離を嘆き悲しんだという。そうまで悲しむのであれば、そのまま住み続ければよかったではないか。
 それを聞くと、テルヒメは口元を手で隠してふふ、と笑う。
「そうね。貴方の言う通りだわ。でもね、それではいけないの。役目を終えたら帰らなければならないから」
「祭宮のこと? でも、人質なのだったらいつまでも居続ければいいじゃない。周期はあるけど、必ず帰らなければならないなんて規則はなかった筈よ。だから、強く望めば居続けることだって出来たと思うの。それにもっと不思議なことがあるわ」
「あらあら、疑問が多いのね。何かしら、可愛い姫」
「テルヒメ様、貴方はあちらにいる期間が短かった。それはどうして?」
「私の場合、少し特殊だったからよ。私はね、ああ、これは恥ずかしいのだからあまり言いたくはなかったのだけれど、罪と呼べてしまう程の過ちを犯してしまったことがあったの。それで丁度祭宮交代の時期が上がってきていたから、私は罪の清算も兼ねてそこに充てがわれた。だけど、その期間は元々正式なものではなかったから短かった」
「だけど、それでもやっぱり望めばそのままいれた筈よ。やっぱり辻褄が合わないわ」
「ふ、だいぶ穿って聞くのね。流石の私でも困っちゃうわ」
「あ、そんなつもりじゃ」
 ばつが悪そうに白夜見姫が俯くと、テルヒメはその頭を優しく撫でた。そうして、彼女は目をゆっくりと閉じて口を開いた。
「私が早く帰ってしまったのはね、下界に暮らす人達は短い命だからよ」
「え」
「知っているでしょう? 地上にいる人は月人とは違って限られた命、そしてそれは途方もない程に短い。だから、私は暗に定められた期間のまま居続けるなんてことは出来なかった」
「何で?」
 それを聞くと、テルヒメは少しばかり困った表情をした。
「だってそれは、私の面倒を見てくれた老夫妻や多くの大切な人達の死を見なければならなくなるから」
「それは悲しいこと?」
「ええ、とっても。それにね」
「それに?」
「私はね、やっぱり何処かで帰りたい気持ちがあったの。ええ、嫌なものも一杯あったけど、でも確かに地上はいい所だったわ。だけど、時間が経ってこちらのことを思い出していく度、彼処に居続けることが辛くなったの」
「でも、それだとおかしいわ」
「どうしてかしら?」
「それなら、今も地上に行っているのはとっても不思議よ。だって、お辛いのでしょう?」
「ふふ、白夜見。それとこれとは別よ。言ったでしょう。私は地上が好きだって。ずっといることで人と深く繋がってしまったり、ここに帰れなくなるのは嫌なのだけど、地上が好きなことには変わりはないの」
「うーん。何だか腑に落ちないわ」
「旅行、って分かるかしら。そんな感覚よ。って、こればっかりはいくら聡明な貴方でも分からないわね。体験してみないことには」
「旅行。あれね。やったことないけど、いつかやってみたいわ。月には他にも異邦の街がありますし、地上はもっともっと広い色んな所があって混沌としていると聞きます。ええ、やっぱりいつの日か地上へと参ります!」
 白夜見は目を輝かせながらまくし立てるように言う。「ええ、いつか、大きくなったらね」と月の姫はその幼き姫の頭を撫でた。
 不意に、足音が聞こえた。二人が何事かと振り向くと、そこには綿津見が立っていた。
「綿津見殿。いらしていたのであれば、お呼びになっていただければよかったですのに」
「いえ、そこまで気を煩わせるわけにはいきません。後姫様、どうかあまりいらないことを吹き込まれませんよう。この小さな姫様は確かに利口ですが、思慮分別が成熟しきったわけではありません故」
「もし、折角こちらにお越しいただいたのですから、紅茶でも如何?」
「いいえ、どうかお気遣いなく。今日は白夜見姫を迎えに参っただけですので。さ、私の愛し子よ。帰りますよ」
「えー」
「姫。我が儘言わない。今度またお話聞かせてあげますから」
「はーい」
 白夜見は小さな足を動かして綿津見の後を付いて階段を降りていった。それを見やりながら、月の姫は小さく呟いた。
「どうか。いと幼き姫君の航海に多幸がありますよう」
 穏やかな風が屋上を吹き渡り、屋敷に植えられていた竹の葉がゆらゆらと揺れていた。