ロストミソロジー 十二章:異界化

 間もなく零時を過ぎようとしている。
 北宮神社の境内に夜風が吹き渡り、やけに冷える空気が容赦なく体温を奪っていく。なるべく肌を外気に当てまいとマフラーで鼻の頭まで顔を覆いつつ、人気のないその道を弓納は横に曲がって社務所の中へと入っていく。
「秋月さんからの連絡だ。本居ってやつの拠点が見つかったらしい」
 広間に入るなり、弓納が冷えた体をその暖かな部屋に馴染ませる暇もなく天野は言った。
 望月と太がいなくなってから二人は弓司庁と協力しながらさやの調査を始めることになったが、弓司庁は自分達の知らない情報を多く掴んでいるようであった。その一つが、今回の騒動の裏で暗躍していた男の存在。
 男の名前は本居正一。政財界ではそれなりに名の知れた男のようで、地方財閥家の出身らしい。天野は「そういえば」と新聞やあまり見ないテレビで何度か記事や映像を目にした機会があることを思い出した。記憶によれば、好々爺とはいかないまでも中々人の良さそうな表情をしている男であった。
 その男が何故かとある所に封じていたさやを解き放ち、今に至るという。
 そして、男には協力者が二人いた。一人がバルバラという長身の女であった。こちらはどうやらロシア人らしいということと、獲物としてライフル銃のようなものを使っているということ以外は一切謎に包まれており、本居とどういう繋がりなのか、何故彼に従っているのかも不明である。
 そしてもう一人については名前も分からない。どうやら仮面を付けているらしいこと、そして正体不明であることから仮にファントムなどと名付けたそれについて、弓納は心当たりがあったが、断定出来ることは少なくとも人ではないということだけであった。
「何処にいたんですか」
「ああ、港地区近くの雑居ビルだと。事務所が軒並み出て行ってしまって廃墟同然になっていたのを奴が買い取ったらしい。当然、足がつかないように偽名でな」
「それはまた不思議ですね。お金持ちなんでしたら、もっと格式高い所に滞在するものだと思ってました」
「あそこは人が少ないからな。色々と人様に言えないことをするのにはうってつけだったんだろう」
「秋月さん達はどうすると?」
「拠点に戻ってくるのを待ち構えて拿捕するって腹積もりだ。まあ、只の凶悪強盗を捕まえるのとはわけが違う。何せバルバラとかいう女の他に、得体のしれない仮面野郎、そしてさやがいるからな」
「さや」
 その名前を嚙み締めるように弓納は言った。
「あの、天野さん」
「分かってるよ。俺達もそれに協力出来ないか、だろ」
「はい」
「そう言うと思って、既に協力は取り付けてある」
「天野さん、流石です!」
 弓納はその場で飛び上がる程に喜んだ。
「弓司庁の人間が三人もいるんだ。それくらいいれば十分だとは思うが、今はなるべく成功を確実にしたいんだろうな。彼らも。後は太君が間に合って土産を持ってきてくれるのを願うばかりだ」
「はい」
「にしても、望月は一体何処をほっつき歩いて――なっ!?」
 天野は咄嗟に弓納を見る。弓納もそれを感じ取ったらしく、同じく困惑した表情で天野を見た。
 空気が揺れている。全身でそれを感じ取った二人は広間を出て外へと駆けていく。
「何だ。曲者か」
「いえ、それにしては敵意のような刺す感覚がありません」
 そう言いいながら弓納は外の戸を開ける。そして上を見上げると、そこにあったものに呆然と立ち尽くす。
「何だ、どうした弓納」
「……多分、あれじゃないかなと」
 弓納に続いて天野が外へ出ると、弓納は港地区の一角を指さす。天野はその指し示された方を向くと、その光景に思わず口をあんぐりと開けてしまった。
「ありゃあ一体何なんだよ」
 そこには半円状の形を保ちながら黒々とした霧が渦巻いていた。その塊の上空には、まるで花を象ったかのような幾何学の文様が薄い青と黄金色の光を放ちながらぐるぐると回っている。
「只事ではないことは確かですね。秋月さん達に連絡した方がいいかもしれません」
「そうだな」
 そう言った矢先、携帯電話が振動し始めた。天野が画面を確認すると、それは弓司庁からのものからであった。
「もしもし」
「あ、ちゃんと繋がったー」
 電話の先から聞こえてきたのは呑気な女の子の声だった。
「勘解由小路だよ。覚えてる、おじさん」
「ああ覚えてるよ、忘れるわけがないだろう」
 少し呆れ気味に天野は言った。自分の命を狙ったのだ、忘れるわけがない。
「うむうむ大変よろしい」
「嬢ちゃん、だいぶ呑気だな。もしかして今起きてること知らないのか」
「ええ、なになに、宇宙怪物でも攻めてきたの? やだーこわいよ~」
「なあ、日向君に代わってくれないか」
「ええと、ごめんなさい。ちょっと調子に乗りすぎました」
 電話の先の天野の声音に怒気を察したのか、勘解由小路は声のトーンを低くして言った。
「えっとね、そうだね。気付いてます、ええ、もちろん」
「そうか。それで、あんたの見解は?」
「うーん、私からは何とも。でもま、今追っている子と無関係ってことはないでしょうね。日向さんも気付いてるだろうし、あー、秋月さんはまだ寝てたりするのかな。まあいいや、兎に角これからこっちでも話し合うことになると思うよ。後これ適当に聞き流してほしいんだけど、この件とさやちゃん、の件が関係あるんなら、予定していた本居捕縛の件は延期ないしなくなるんじゃないかな」
「これがさやと関係ありなら、後手に回ってしまったな」
「そう後ろ向きなことを言わないの。ええと、こっちで話がまとまったら追って連絡します。では」
 それで電話は切れた。天野は携帯電話を内ポケットに戻すと、弓納が待っていましたとばかりに詰め寄った。
「どうだったんですか」
「ああ、あれは今さっき起きた現象だからな、あっちもまだこれから話し合うんだと」
「確かに、そうですね」
「どうするよ」
 目視出来る距離にある異常にも関わらず、相変わらず静けさに包まれているいつも通りの境内の中で、天野は弓納に尋ねる。
「どうって」
「ここで連絡が待つのか。それともあれの原因を掴みにいくのか。俺はどちらかというと後者をおすすめしたい」
 そう聞くと、弓納はくす、と笑う。
「おい弓納。な、何がおかしいんだよ」
「いえ、天野さんがそんな積極的なことを言うのは珍しいなと思っただけです」
「そうか? いや、そんなことよりその言葉、何か馬鹿にされている気がするんだが」
「さあ、そうと決まれば準備して行きましょう。太さんには私から連絡しておきます」